■2013/09/28 慢性疼痛とか、疼痛性疾患とか…
昨日の続きになるのかもしれない。
今回も現象について考えたく思う。
例えば、”痛みが走ると何も出来なくなる。”と、そんな現象を表記する言葉と出会ったとする。
事実、とてつもなく重い言葉だと思う。
翻って(ひるがえって)分析してみると、現象を表現に変える時、上記のような表記になるのかもしれない。
これは、痛みを発する患者サイドの物語だけではない。
関わる全ての人間の物語になるのかもしれない。
あるいは、何かの原因で人が罹患する可能性があるならば、とても重要な事象になるのかもしれない。
と、映画ならば、多分、もっとセンセーショナルにドラマチックに表現が加わるのだろうけれど、国語力のないあたしにはここら辺が限界。
”家族へ愛の為、男は立ち上がった…♪”とか、副題が付いたり…ね!♪
あるいは…?
”男は、誰の理解も得られなくても、ただ一人走り続けた…♪”とか、目を引くために、カッコウ良い言葉で演出されるのだろうな。
で、本編でお会いしましょう。と、ロードショウを楽しみに待つのだろうな。そんな事を、脱線ついでに思うのです。
本題に戻ります。
この現象を指し示す表現として、患者が痛みを訴えた際、二つの瞬間の時間軸の物語が交叉するように思う。分かんないけれど…
一つは、患者が知る現象の表現。
一つは、その現象に対し、対峙しなければならない歯科医。
同時にその瞬間、不安と期待と、憐憫と畏怖が交錯する時の橋が待ち受けているかもしれない。
この時の橋を、上手に渡れない時、実は侮蔑と嘲笑が、歯科医には待ち受け、現象に苦しむ側には初めは失望で、時と場合によって絶望と言う文字を人生のパートナーにせざるを得ないのかもしれない。
さて、ここで問題は痛みと言う現象を歯科医と患者がどう捉えるかによるのだろうか?
これは、歯科領域だと考える歯科医。これは、歯科領域だと考える患者。
これは、歯科領域と考えない歯科医。それでも、これは、歯科領域と考える患者。
数学的な表現に変えれば、まだまだその可能性は続く。
唯一、交錯が起こらない可能性は、両者が、歯科領域と考えない瞬間になるのだろう。いえ、言い方を変えれば数学的に交錯しない方法となるのだろうか。
と、小難しいお話はこれぐらい。
ところで、なぜ歯科領域と全身との兼ね合いが考えられ始めているのだろう。
ところで、そう考える事は、お門違いか、勝手違いになるのだろうか?
そろそろ、結びにしよっかな。疲れてきたし。
ところで、サイバー攻撃を、結構身近に感じた事がある、
で、その意味を知る際に、時引っかかった言葉が、サイバネティックスと言う考え方。
サイバーの語源は、『舵(かじ)』だそうです。
サイバー攻撃は、舵をおかしくする。舵がおかしくなれば船は、ただのモクズ。
で、サイバー攻撃の究極は、社会活動の停止。コンピューターの管理が一切出来なくなる状態、とでも言えば良いのだろうか…
対して、引っ掛かった言葉のサイバネティック。
サイバネティックは、厳密な定義はないそうですが,一般には,生物と機械における通信,制御,情報処理の問題を統一的に取り扱う総合科学だそうです。
対象をある目的を達成するために構成されたシステムとしてとらえるとする。それはある組織だった構造をもつものであり,その結果は目的に合致した挙動をするものとなる。
対象の挙動に注目する場合,対象がどのような物質で構成され,どのようなエネルギーを利用しているかが問題ではなく,情報をどのように伝送し,どのように処理し,その結果を用いてどのように制御しているかが重要となる。
こんな意味だそうです。はてはて??
仮に、身体に慢性的な痛みがある。痛みが動くと走る。と言う表現も、実は現象を指し示す表現でしかない。
原因として、明確な対象物が無い場合、別の視点がいるのかもしれない。
なんて事を考えたりする訳です。
また、どこかで整理したく思うけど…
慢性疼痛で触るだけで飛び跳ねていたのが、でも痛い。
周りは結構、イイネでも、本人の自覚は痛い。
そんな患者を前に、舵はどこに行ったのだろうと、一人夜更けに思うのです。
歯と身体は関係ないという限り、こんな思いと出会えないのかもしれない。
歯と身体は関係があると捉える時、また別の出会いがあるのかもしれない。
どっちが良いのでしょうね。
落ち切らない所で、おしまい。