■2013/10/08 お客様って究極の表現だと思う。その2
昨日の続き。
では、医療を提供するという仕事の場合、どんな世界が見えてくるのだろう。と、どんくさいあたしは思います。
そもそも保険制度は、管理される側(即ち保険医)にとり、資本主義を分かる必要が無い制度です。資本主義で生きていようとも。いうなれば、決められた出来高が基本ですから。
ここからの主は、経済を根底に置いて考えを深めたく思うのです。
経済が共産主義のように(もっとも、共産主義だけど経済は資本主義と訳の分からない手法を選択している所もあるようですが)出来高である以上、その意識は医療を提供するという意識形態になりがちなのかなって思うのです。
唯、それだけでは寂しいので、他にステュエーションはない物かと考えます。おそらく医療を提供するという意識の構築は、医者先生方には、自然と身に付くのではないかと考えます。
環境因子、影響因子も様々あるのでしょうが、おそらく疾病と対峙するという強い意識トレーニングの賜物かと想像します。あくまでも想像でしかないので、決めつけなど持っての他です。只、傍から見るとそんな事を感じます。
対して、あたしらの業界はどうなのだろうと考えます。
誇りをかけてとか、命がけでというモチベーションと申しますか、意気込みは別に、疾病と対峙するという意識の量から始まるのだろうか?量と言う表現も変ですが、ふと、そんな事を想像してしまいす。
おそらくですが、身を切るとか、命をすり減らすというそんな感覚を医療者側が持つ時は、医療者は、医療を提供するという意識になるのかなって思うのです。
あるいは、職業に拘束される度合いが強いほど、医療を提供するという意識になるのかもしれません。
例えば、深夜であれ、休日であれ、患者の為、疾病と対峙の為、職業を全うしなければならない程、もしかしたら、そのように思うのかもしれません。
分かりませんが、他の人はどのように思うのだろうと、考えたりします。
疾病の存在の重さが常に脳裏から離れない時ほど、医療を提供するという意識が構築されやすいのではないかと想像するのです。
返して、一昔前であれば、医療を提供するから出来高制だろうと、単純化された意識形成で許されたのでしょうか?そう思ったりもします。ですが、同時に社会的使命も強く意識した時代があったはずと、想像したりします。
そこに医療を提供するという意識と、医療サービスを提供するという意識の構築のし方の差異につながるのかなって思うのです。まだまだ背景はあると思います。
医療の技術水準の議論ではありません。
唯、美容外科で、お客様という言葉の産まれる根源は、どこにあるのだろうと思った時、ふと、医療を提供するという意識と、医療サービスを提供するという意識の差を考えて見た次第なのです。
更に付け加えるならば、医療サービスの提供の究極の言葉は、お客様になる事だけは間違いない気がしてなりません。本質だよねと思えるから不思議なものです。
その中間に位置しているのが、患者さまという言い回しになるのでしょうか?
個人的には、患者という既に呼称を指し示す言葉の上に、変換させた丁寧語扱いなのでしょうが、患者さまという言い回し自体が、妙に滑稽に感じてなりません。その悠長な暇は、疾病と対峙する側には無いと思い込んでいるから、こだわるのでしょうか。
一見すると丁寧ですが、想像します。
”患者を(診察するために)通してくれ!”
”患者に緊急事態です!”
”患者が危ないです!”
と、
”患者さま(診察するために)を通してくれ!”
”患者さまに緊急事態です!”
”患者さまが危ないです!”
疾病における真剣身のエネルギ—が妙にずれる気がしてなりません。どうなのでしょう?
新しい日本語の言い回しの誕生と言う事なのでしょうか?
何時かは、『お患者さま』と、何か嫌な感じの響きになっていくのかしら。
どこぞかの時代の、『お犬様』みたいで、どうにもあたしは、好きになれません。
多分、サービスまで配慮する意識が、医術の場所であるべき事に膜をはらせるみたいで、好きになれないのでしょう。そんな事を思います。
だからこそ、それだけ、お客様という言葉表現に感動したという話でした。気持ち良く持ち上げて、気持ち良く演出して良い商いを行う基本の言葉だと、あたしは認識しています。
疾病に対峙する時に、そんな余裕を見せるほど、医療者は余裕があるのでしょうか?
医は仁術という昔から残る言葉とは違う価値観の世界、それが、お客様という表現でした。とても不思議な表現です。
そんなお話でした。
さて、歯科医歴もいつの間にか多分、20年選手と言う領域に入ります。歯科に携わった時間になります。弟子が何人とか、何千人とか、何万人治したとか言えれば、とても凄い人みたいで頼もしいのですが、あたしの場合、どうやら勝手が違うようです。
益々、怖さを知り、奥深さを知り、動物としての人間の凄さを知り、感動を覚え、恐怖を身近に生きているような感覚に襲われます。そして、唯、疾病と向かい合っているのかなって勘違いする場面が多くなっているようです。その分、社会からどんどん乖離してあたかも、クリニックで引きこもり生活をしている感じです。
ようやくファイナルの補綴を入れ始めた患者から、ちょっと嬉しい報告を受けます。
この膝の痛みも、かかとの痛みも、もう取れない。理由は、エトセトラ、ETC.
そのように、お医者先生に言われた。で、いつしか、階段も普通に上れるようになっています。それが嬉しい。
多分、口がバランス良くなったことで、アライメントに悪さしなくなった結果なのかなって思うようにしています。そんな主訴をお受けしていたら、あたしは歯科医師法で違反を犯す事になってしまいます。たまたま、気かっけの一次因子を口腔が、今回の場合握っていた、そんな所だと勝手ながら、想像します。
例えば、背中が痛いという時、胃が悪さする時もあるようです。お医者先生も、畑が違えば、しかるべき担当科に紹介する事もあるようです。仮に、口にそんな関わりがあるとするならば、前述と同じような関係が生まれると、良いのになって、そんな事を想像したります。
それが、医療を提供するという意識と、医療サービスを提供する意識の差につながるのではないか、あるいは、患者という呼称と、患者さまという呼称の温度差になるのではないかと、ふと、想像したりします。
分かりません。
本日は12時過ぎ。たっぷり働きました。
だって、顎が動かなくて睡眠障害にどうやら陥っていらっしゃる様だったのでね。
いわゆるセントリック オブ フリーダムの再構築と言う奴ですかね。
顎が動くって、こんなに不思議なんですね。←患者の言葉。
ついでに、寝起きが前より良い気がします。
嬉しい言葉です。励みになる言葉です。あたしみたいな単細胞なアホにはちょうど良い手頃な言葉になります。
人間って、まだまだ未知な部分が多い気がしてなりません。医療とは一体、何なのでしょう?
歯と身体は関係ないという意識では、知りえない未知の世界なのかな?
おしまい。