■2014/01/29 だるまさんが転んだ。離言/依言
デンタルサイクルと言う言葉があります。ま、考え方でしかないのですがね。そのようにあたしは捉えています。
で、何で考えにしか過ぎないというのだろうと、ふと、考えます。
と、その前にその考え方から。
簡単に。
スタート→虫歯になる。→銀歯を入れる→外れる→神経の治療を行う→銀歯を被せる→銀歯が駄目になる→抜く→ブリッジをする→部分入れ歯になる→総入れ歯になる→ゴール
と、治療が段々と、複雑になる。と申しますか、一度治療が始まるとします。
で、時間が進むと、(下手な治療をすれば)上のサイクルに嵌ってしまうよ。という考え方が(多分、分かりやすい治療哲学の一つとして)存在しているという代物です。
*下手な・の意味は、読み手に委ねたく思います。技術論として捉えるのか、治療体系として捉えるのか、治療パーツの種類、予後なのか等々あると思います。
この考えが守られるならば、世の中に歯科の治療は少しずつ減るのかもしれません。
で、現実はどうなのか?
歯科医院の数は増えているようですね。
で、虫歯の本数は…
一人当たりの口の中にある数は、ここ10数年変わっていないようです。
で、デンタルサイクルという考えはどのように扱われているのでしょう?
現実化は難しいから、理想として存在しているという考え方があるでしょう。
現実を理想に近づける事が大事という考えもあるでしょう。
ま、現実と言う事象Aと、理想と言う事象B、二つの事象が重なるのか、分離する物なのかそんな事を頭の片隅に置いてみれば、歯科医院の数が増えている事実はどのように見えてくるのでしょう。
ま、あたしは見られる立場の方なので、これについてはノーコメント。
ただ、こんな風に事象が交錯する時、別の見え方や考え方を導入すると、どう変わるのだろうと思う時もあります。
ま、端的に言えば捉え方と言うのでしょうか。
言葉で表現する時、あたしのインナーサイドから、外のアウトサイドに出す時。離言と言うのでしょうか?では、吐いた言葉全てが該当するのでしょうか?
言葉に支えられる時。外のアウトサイドから受け入れて、あたしにインナーサイドで支えにする時。
依言と言うのでしょうか?では、受け入れて支えにした物・全てが該当するのでしょうか?
どっかの仏教思想から、表層の響きに感動して用いちゃいました。アホなので、恐れ多く“これっぽちも”お釈迦様の意図など理解出来ていると思いません。ま、意味も分からず響きに感動して使っている次第です。恐縮します。
話を戻します。
治療には、対処療法、原因療法→根治療法と、存在します。
医療現場には、言い方を変えれば対処療法、原因療法→根治治療と存在する訳です。
ここまでが、大きな見方。
じゃあ、歯科の治療では、何を持って対処療法、原因療法っていうのでしょう。
マクロ的な世界観、ミクロ的な世界観。
科学的な性質から考える世界。
と、まあ色々あるのでしょうが…
そんな事を拘って、綴ってみたく思うのです。宜しければお付き合いください。あ、何かを訴えたいとか、そんな大それた野望などありません。あ、一生懸命知って頂きたいという熱さもありません。そんな大それた人間じゃありません。
ま、何かが共有できればを嬉しいかもって、思っています。
待てよ。
その為には、あたし自らの魂をさらけ出す?って事になるのかしら。
さて、どんな事を睨んで、離言と依言にしている事やら。
転ばないよう完結出来るのかしら…ネ。
おしまい。