■2014/02/15 弥法と言う捉え方から見える世界?1
“弥法と言う捉え方から、治療を見ると…”てな、感じの話に展開が進んできました。取り立てて、テーマを決めている訳でもないのですが、何かが整理出来そうで、ちょっと、良いかもて感覚で書いています。
ところで、医療と言う治療行為における人間のつながりという関係性では、大きく分けて二つの考え方があるようです。一つは、ドクターが主導して患者の治療内容を決める物。一つは、患者が考え判断し決める物。
前者に関して加筆すると、今はおそらく流行りでないと思います。後者は、セカンドからサードオピニオンというぐらい患者が悩んで決めればよいと言う捉え方になるのでしょうか?患者主体と言うのでしょう。
言い方を変えれば前者は患者の考える枠など無い治療姿勢。後者は患者が考えなければ始まらない治療姿勢と成るのでしょうか?どちらが良いのでしょうね?
併せて、治療における時代は、同時に1歯単位の治療形式から、ブロック治療という治療姿勢に考え方がシフトをしていきます。
ま、要約すると、悪い所あるいは、患者が気にしている所以外は、手をつけない。そんな形式を主にするという事になるのでしょうか?
その一方でブロックは、口腔内をブロックの単位に分けて、1ブロックが終えるまでは、緊急回避処置として以外は、次に手をつけないという考え方になる訳です。
さて、ここに弥法という捉え方を入れて見たく思います。
多分です。これは、あたしの勝手な人間観察学からと認識すると…
術者主導の場合、患者は結果など分からなくて良いから、大きく分けて二つの結果の層に分かれるのではないかと思うのです。
1、 芸術の域まで昇華した結果。いわゆる、匠の世界
2、 昔の流行り言葉でないですが、“ダメだ、こりゃあ。”
匠の域の先生に出会ってお任せしようとする確率と、“ダメだ、こりゃあ。”の域の先生に出会ってお任せしようとする確率は、どちらに有利なのでしょうか?そして、結果が、弥法が起こる確率はどちらなのでしょうか?
で、匠って表現するのは簡単だけれど、治療自体が時の進みで進歩した結果、より複雑になっていく限りでは、これはこれで調子悪いよなって、思う時もあります。何をされているか分からない中では、患者も匠の前にいつまでも立ち続けるって、実際可能なのだろうか?そんな事を考えるのです。
比較する事自体が、陳腐なのでしょうが、「匠」と、“ダメだ、こりゃあ。”で、弥法になる確率は?となっても、そこには様々な設定条件を渡さないと一概に、こうであるとは言えない気すらしています。難しいのだろうな…
患者主体の場合、とても患者優位と感じる表現ですが、一概にそうはいえないのではないかと思える次第です。即ち、実は、術者の側にとても大きな役割がある気がします。患者が判断する上でも、とても大事な何かに術者自身が関わっているとでも言えば良いのでしょうか…
ですから、逆に、この患者主体も、見方を変えれば、これはこれで難しいのかもしれないと思うようになってもいます。この主体性と言う言葉に、実は、曲者があるのではないかとこの頃思う様にもなっています。患者主体が適正な表現と思う側にいます。これは、気が向いたら触れてみたく思います。
患者判断次第で、中途半端に終わると言う事は無いのだろうか?そんな事を考えたりもします。患者任せがある程度許されるという考えはありでしょう。
でも、全体的な構成は、患者には出来ないという事実を置き去りには出来ないとも思えるのです。
捨て去る事も、置き去りにも出来ない当り前の事実。それは、患者にはグランドデザインが描けない事。ここに患者主体の越せない壁があるのでしょう。
その前提で、用意された手法の一つにインフォームドコンセントがあるのでしょうか。
先に材料学の話から見える世界の価値観の差を触れてみました。この価値観での弥法に関しては、実は単純に説明が出来る側面が多いように考えています。これは、物質的側面を主体に触れれば良いからだと思います。
ところが、治療体系を支える思想と言えば良いのでしょうか。多分、小難しい言葉を用いるならば、倫理的妥当性と、社会的許容性等を絡めた結果起こり得る弥法の現象は、とても難しい世界だと思うのです。多分、精神性の世界観が主体になるからなのでしょうね。そんな事を思います。
ただ、読み返すと、“ダメだ、こりゃあ。”そんな感じです。国語力が無いよな…反省。
今回はここまで。
おしまい。