■2014/02/25 大工作業だけか?あっしらは?
“医療と広告?”の関係って、七面倒くさいと思う時があります。これって、真剣勝負のまねっこを、知らしめるぐらいで、よくネェ?
作る人たちがソコソコ出来れば、何とかなってしまうと書いてしまったのが、前回。でも、個人的には、臓腑に落ちない感覚を持っているのです、つまり形成外科的感覚では。と、ぼやいたのが前回。
で、何で?と、モヤモヤした時間を過ごしたものです。
形成外科の様な感覚と言う言葉を、ここでは安易に使っている物の、形成外科の本質を当然ながら知っている訳でもありません。只、再現するという歯科の大工の性質に対して迷う訳です。
多分、“ピーン”と来る言葉なのか、意味する表現にどうしてもあたしの場合、探索出来なかった。そんな言い方が適切になるのでしょうか?
その一方で、「保険で何でもできるという」、あたし自身は、どうも草臥れた感覚も持つのですが、そんな思想があたしらの業界にはあります。ここでも、矛盾を感じる訳です。
では、技術の体系化が進むという事自体が、この紹介した思想には受け入れられる隙間があるように思えないのです。あたしは何れも所有した経験が無いので、利便性等は一切分かりませんが、例えるなら、ウォークマンが、スマホに変わり、片方は既に過去の遺物になり、片方は今の旬である。技術が進化し、新しい表現された形が生れる。そんな物と思うのです。
何でもできるという考えのベースは、十分噛めるではないか!!だから、自費と差は無いのだ。と言う所が、その本質ベースにあるのでは?っと、思うのです。
この考えであれば、美容的な発想と言う表現を使う事を了解いただきたいのですが、見た目を良くする事も、実は安直に考えられる事になるのではないか、本質は同義である気がしてならないのです。違いは、お金の差と銀歯か白い歯の差?になってしまうのか、相当に悩む訳です。これは、物の性状に対する議論で、ピーンと来る物が根にあるとは思えない訳です。
もし、何でもできると言う発想は、歯科医の力を相当に劣化させる気もする訳です。だからと言って、自らが完璧である訳でもありません。完璧であれば、何かを見いだせるでしょうに、不完全だから、また、悩む訳です。
というのは、安易な処置により、ご苦労を背負いこむ患者もいる。この事実がある限り(当院だって、そんな人生の宿題を持たれた方々とのお付き合いが無い訳では無いです)、何でもできると言う発想は、受け入れる事は出来ないと結論を、あたし自身は持たざるを得なかったのです。
で、そのご苦労の宿題について考えると、一言で言えば、“噛めない”という所が、掘り下げて掘り下げて行く運動を続けると、どうもそんな感覚と統一の傾向がある気がしてならなくなる訳です。でも、噛み合わせという学術定義は、ない模様。
誤解をなきように一つ触れておきますが、審美には当然、審美性を維持する為の形成法、印象法等のエビデンスはあります。でも、これは、見方を変えれば、大工作業を成功させる為の、方法論の正当性。もっと荒い言い方をすれば、作業説明書はあります。知らない?不勉強の術者もいるでしょうし、座学では専門家でも、具現が出来ない術者もいるかもしれません。
でも、医療と言う立場である限り、何かが足りないと葛藤する訳です。一個一個の真剣勝負は、どの仕事であれ意識世界の中で大差が生れる訳ではないと思うのです。そこで、医療と言う立場を取るならば、違う!何かが違うと思うようになる訳です。
機能性…
ここに医療の一つの隠されたテーマがあるのではないか?そんな事が脳裏に過ります。
じゃあ、機能の意味と、機能を具現化させると言う意味は?これが、多分、大事なキーワードと思いを侍らせるようになる訳です。一つの答えは、生理学と言う学問で、反射という場面に何かがあるのでは?と考え持つようになる訳です。
これは、あたしの場合。
身体と歯は関係ないと言う考え方があります。実際、どうなのでしょう?
噛み合わせがおかしくなると、身体がおかしくなっていると言う事象があります。実際、どうなのでしょう?
美しい笑顔は、歯を変える事です。きっと、そうなのでしょう?
でも、歯の裏が分厚過ぎて、苦しいと訴える患者がいる事象もあります。実際、どうなのでしょう?
歯科医の仕事が、単純に大工作業であれば、訴える患者の報告は無い事が妥当です。
日本の過去が全て悪ならば、あたしらの御先祖様は全員犯罪人と言う評価が妥当です。
でも、おかしいと疑問を持つ事は、どの評価を受けるのでしょうか?
おかしい事をおかしいと言うと…
“人は盗人火は消忘”にこしたことは無いようです。
右傾化を批判する事は、良い事で、その基本路線は日本流の左巻きアジアのプロパガンダ?と錯覚を覚えるこの頃です。
“人の過ち我が仕合せ”精神に引け目を持たされるのでなく、段々“人の振り見て我が振り直せ”に、意識の変化を持つにつれ、もういい加減靄の安直魔術には近寄らなくなりつつあるようです。
同時に、“人には飽かぬが病に飽く”そんな日々でもあります。
でも、信じないと行けないのかなって、思っています。
何を?
それを、時々考えるようにしています。
人の身体は素晴らしい。その前でいつもたじろぐ。
おしまい。