■2014/07/29 あおり過ぎる表現になりそうだから…
さて、いつの間にか長く、らしくなく、だらだらか?ツラツラ?か、、書き続けてしまいました。
読み苦しい所も多々あるかと思います。どうか、ご容赦ください。
そして、読んで頂いている方がいらしたなら、感謝します。
でも、この話、一端ここで終えたく思います。
何かを伝えたいとしても、あおる事が大事なのではないと思うのです。
一臨床医でしかありません。
社会的にも、まず、無名な草だと思っています。
開業医ですから、唯、そこに、そう路傍の石の如くあるだけの存在と思っています。
だから、草のような物だと思うのです。臨床医ですから臨床に嘘を嘘をつけば、草は枯れるでしょう。臨床医ですから、まっすぐに生えようとしても、草故に、曲がって生えるのかなって、思うようにしています。
でも、臨床医であり続けないと行けないのだろうと思うのです。それ以上もそれ以下も出来ないと思っています。
そんな程度の人です。
だから、書き続ける事は無意味でないかもしれませんが、あおるが如く書き続けても意味がないのではと思うのです。
上手く言えませんが、歴史認識をと談合の如く押し付ける暴力はあたしは、とても怖いと思います。事実が違えば違うほど、反発力も大きくなります。その反発が大きくなればなるほど、愉快ではなく、多分、憎しみや恨みと言う心を育むような気がします。分かりません。
当り前の権利を、さも、今後の未来を変えると恐怖を与えれば与えるほど、実は、恐怖の対象が、いつしか憎しみの対象に変わる事を意味する気がしてなりません。集団的自衛権と言う言葉を、一人歩きさせ恐怖の言葉に転換させようとしている行為などは、その一例のようにも思われます。
出来ているとは到底思えませんし、出来るように心がけたいと思う森羅万象の心はきっと、医療と言う現場では求められるのかなって、手前がってながらに思います。
唯、渇きや憎しみや、恐怖を対象にしながら、それを隠しそれが、正義なように持っていく展開は、個人のあたしは疲れます。というか、あまり受け入れたくないと思います。
国の中の問題は、国の中で解決していくしかないと思います。首都の都知事が、外交に関係ないのにナーバスな時期に行動するものでもなく、私達の国を侮辱して国を纏め、隙あらば、侵略をしちゃおうというノリに歩みを近づけるものでもない気がします。分かりません。
そういう事をすればするほど、もしかしたら、どちらも引くに引けない、感情のループに、別名ナショナリズムに陥る気がしてなりません。
愛国心と、ナショナリズムはきっと違うと思うのです。
良く分かりませんが、深呼吸をして世界のニュースを見ると、あちらこちらにナショナリズムの炎が噴出しているように思えてなりません。その炎が大きければ大きいほど、癒える時間は、相当だろうなと寂しくなります。
どう火の粉が飛んでこないようにしながら、癒すと言うか癒える方法を作るか、これが、間違うと、本当にあって欲しくない戦火と言う景色が目の前に現れるかもしれません。
侮辱のアジアや侵略のアジアと、皮肉っていますが、彼らの憎しみに付き合う気が無い事。その負の連鎖にお付き合いする結果、自らをナショナリズムと言う立場に置く事で得る安心感?から距離を開けていたいと思iいがあります。
自由ではなく、不自由に身を置く事を求める日本ダメな子悪い子のエネルギーからやはり、一線を置きたいと思うのもこんな所が理由なのかもしれません。
反発は、愛国心ではなくナショナリズムと言う正義を招く事になる気がしてなりません。
あおられる事に付き合うのではなく、あおられるならば無視をする事が大事なのかと思う今日この頃です。
お付き合いする事で生まれるヒートのあおり合戦は、傷を新たに作り時間が乗り越えさせるまで、長い時間を要す気がしてなりません。それは、とても悲しい事のようにあたしは思います。
憎しみを日本に向ける侮辱のアジアや、侵略のアジアはどれだけの数の傷つく人を誤魔化す手法に利用しているのだろうと、残念な感じです。
そして、それをあおるが如くお付き合いする左巻きの渦には、正直、ヘキヘキしているのか残念でなりません。
と言う価値観のせいか、顎位とか、咬合とかそんな話は一端、ここでおしまいにしたく思うのです。
恐怖で、患者を集めたいとか、メリットとか、演出された説明会?とかで患者を公募するという生き方とは一線を置く事が大事な気がするのです。草という、路傍の石のあり方ではないかと思うのです。そんな感じです。
長くなりました。
今回は、これぐらいで。
おしまい。