論理には、前提がある事が要求されます。
難しい物です。
ま、何気に置いて行かれた声が、ないかとネットサーフィンをします。
ま、噛み合わせがおかしいから、噛み合わせを治したら、身体が治った。これは、見つかりました。少ないです。
身体がおかしいから、身体を治したら、噛み合わせが治った。これは、無かった気がします。
噛み合わせがおかしく、治したら、身体が余計おかしくなった。あるいは、前よりおかしくなった、そんな声は拾えます。結構、あります。
顎がずれているから、顎ずれを治したら、良くなった。
しかし、その後の、お話を聞きません。
何故だろう…
考えられる事。
顎ずれで身体は治ったが、噛み合わせは、治していない。治す必要が無かった。
噛み合わせを治す治療をしたら、おかしくなった…だから、パニックになっている…
ここで、問題は何を基準に治ったと、医療者側は言えば良いのか?
患者側が治った、とか、治っていないとか、これは、(ごめんなさい)素人の判断です。
悪化したとか、おかしくなったとか、何を基準に言うのでしょう?
繊維筋痛症の起こり得る引き金に、歯科治療があるという事になっておりますが、何故、そこに行きつくのでしょう?
噛み合わせ治療を行っても、行わなくても、結果に、優位差は無い。アメリカさんなぞで、統計処理をした結果…
おかしいという声は、おかしくなったという声は、かき消されます。かき消されれば、優位差は無いのか、あるいは、優位差が消えてしまうのか…
論理には前提条件がある事が大事だと思います。
前提条件は、何なのか?
何を持って、治ったというのか?
患者の俺が、治ったというから治ったのだ!一番、一理があると思います。
しかし、医療者側は何を持って治ったというのでしょうか?
でなければ、“顎ずれ“の治療根拠も、”噛み合わせの治療の根拠“も、裏を返せば、ないという言い方も成立しないでしょうかね?
言葉遊びです。
噛み合わせ治療が得意の先生に。ネットで噛み合わせを主に質問をするどこかの誰かには、再び、噛み合わせの得意の先生に診て貰うと…と、返信が付きます。
ところで、何を持って、得意か不得意かを患者は見極めるのでしょうね?
質問したどこかの誰かは、その質問の解を求めて、誰とも分からない噛み合わせの得意な先生を探す、あてもない旅人をしないといけないのでしょうかね?
そんな事を繰り返していたら、心も体も参るという物です。
そんな中、心身症と言われた時には、あなた、どうしましょう?
噛み合わせが…咬合異常症そんな病名を付ける事も出来ます。
良くなっているから治っているのだ!
これでいいのだ!! と、どこかの漫画の主人公の台詞で終われば嬉しいのですが、果たしてそうなのでしょうか?
自分を信じられない時、他人なんて信じられない、何て、言葉を聞いた事があるかもしれません。ですが、他人と言う医療者を信じられなくなった時、その心はどこに、叫び声を持っていけばよいのでしょうか?
『本当に、これでいいのだ!!』 なのかな?どうですか?