随分、長く、何かを語って来たように思います。
でも、多分、二律背反性な物の見方は、実際、私は寂しくなる事が多いです。
それが正しいというエネルギーを強く反証する事も出来ないとも、同時に思っています。何故ならば、これが正しい、顎関節症の治し方だという、そんな方法が、無いという所に、世間の常識はあるような気がしています。
では、何故、これだけ情報化時代に、このテーマが着目を浴びるのだろうとも思ってしまうのです。
でも、せめて良くなる、あるいは、解放されるヒントぐらいは、この21世紀つかんでいても良いと思うのです。
(国立図書館で、紀元前にも顎関節症と思われる骨格標本を覗けた時は、身ぶるいをしました)
話を少し変えます。
医術とでもいいましょうか?
東洋医学的(私は、西洋科学の基の資格ですので、東洋医学は皆目分かりません)病の考え方とでも、言いましょうか?
こんな言葉があります。
普通の医者は病を看られる
良い医者は病を治せる
名医とは病になる前に、病を見抜き、治す
東洋医学に精通しているのかなって思う友人に(内科のドクターです)聞いた事があります。この意味は、どういう意味なのだろう?
笑いながら “俺も分からん”
“話にならないじゃんか!”と、何気にふてくされます。
笑いながら答えます。
“ただ、病に、当たり障りのないところで納めるというのかな…もちろん患者がどう受け止めようが、多分、関係ないと思うの。この場合。本当に当たり障りのない所にするわけさ。”
“治すという所にこだわらないのかな?“と、問いかけます。
“当たり障りのないという言葉は、多分、文字通り当たり障りのないという事だけどな…”
考えます。悩んでいる思いを胸にしまいながらも、考えます。と言う事は、結果とか、過程では無く、何もしないという事なのかなって…腹を見透かされたように、続く言葉がありました。別に質問もしていないのに。
“まあな、何もしない、あるいは、トラブルが出ない、とにかく、そこに落とし所を置こうとするのじゃないかな?別に、この際は、関係ないと思うよ。患者がどうなるであれ…”
声だけが届くのですが、考えて行きます。病を治せるとは。どういう意味なのかなって?治るのだから、治療に取り組み、結果を出すという事なのかなって考えます。じゃあ、名医とは予防を促進する先生?分からん。今考えると、穴があったら入りたい心境で、碧い時期だったと、苦笑いをします。
そんな、碧い思い出の中から、また言葉がよみがえります。
“まあ、よう。実際、病ってそんな簡単じゃないと思うわけよ。患者が治ったと言ってくれるから、治った事にしているわけ。勿論、西洋医学的解釈なら、100パーセント治っているわけよ。でも、東洋医学の見方は、まるっきり違う訳さ。”
ハニャ?の心境でした。わけが、分からない。そんな感じとでも言えばよいでしょうか?続けさまに言葉が出ます。考えながら、うつむいた顔は、徐々に上がりますが、どうしても口の動きしか思い出せません。不思議なものです。
“東洋医学ではな、如何に根を断つか、そこにこだわるわけ。“
得意気に動く唇を見つめながら、言葉にならない何かが、はじける感覚を持ちます。
“言い方を変えれば、西洋医学は対処療法。究極の対処療法もあれば、何も出さない対処療法もあるわけ。実際、そうなるかは分からないけれど、根を断ち、二度とそうならないよう取り組む…こんな感じかな?”
“だからさ、根を絶たずに、良くなったって医者が思ったり、患者が言うのは、多分、普通かな、いや、自然の世界だと思うよ。難しいもの、そんな世界。でも、目指したいと思っているのかな?多分。”
そもそも、何を以って治ったというのでしょうか?