噛み合わせは顎関節症の大きな原因ではないと、思いたくなってみても、
噛み合わせは顎関節症の大きな原因だと叫びたくなってみても、
どれも関係ないと、歌いたくなってみても、
私ども医療人が、医業で生計をなす為には、どんな理由であれ、患者と対峙する必要性が出てくるような気がしております。
治療して何ぼという捉え方もあれば、
結果を出して何ぼ、
気のせいと言って、いくばくかのお金をいただくという、回避の仕方もあれば、
チャレンジしてみようという捉え方もあるかという、
患者という存在を一回、無視すれば、医療人としての捉え方は、さまざまなものになる気がします。
私は、真摯に対応するという言葉の意味は、無謀は論外かもしれませんし、冒険は危険の香りがするように感じますが、時に挑戦がいるのかもしれないとも、考える事があります。医療で生きる限り、個人としては非常につらいですが、常にリスクと隣り合わせと考えています。
目の前に苦しんでいる患者がいる。
当たり障りなない声をかけるのか…
何に障害があるのか、この病態は何なのか、調べることなのか?
新しい新発見の病気なのか?
それとも、古くから存在し、その本質を、私達歯科医が気づけなかったものなのか?
(私は、科学の進歩、研究の積み重ねが起こるまでは、致したかないもののように思います)
そう考えると、まんざら、プラセボも、悪くないのかなって思う事もあります。
でも、この際、リラックスをしているという共通項があるように思えてならないのです。筋肉が変な緊張を、起こしていない、ここに、実は、大きなヒントがあるように思われてなりません。
もし、ずーっと、リラックスできていたら、幸せ物質が出つつづけてくれたら、プラシーボであれ、それは、何ら、問題が無いように思えます。
こう考えると、もしかしたら滑稽な妄想と思われるかもしれませんが、こんな事を考えてしまいます。
もしかしたら、変に力が入らない状態ならば、顎は痛くならないのかもしれません。
変に力が入らない環境の、噛み合わせならば、顎は痛くならないかもしれません。
言い方を変えれば、リラックスできる顎の状態になるのであるのならば、噛み合わせの治療などは、不要なのかもしれません。
変に力の入らない方法を顎に学習させる事が出来るとすれば、言い方をかえれば、リラックスできる方法を教える事が出来るとすれば、あるいは、学習させる事が出来るとすれば、顎関節症においての噛み合わせの治療は、繰り返しになりますが、不要では無いかと、思えるのです。
では、逆に、学習する事が出来ないような、既に噛み合わせになってしまっている場合、噛み合わせの治療は、避けて通られないもののような気がするのです。
ところで、噛み合わせの治療と称す物の定義は、一体何なのでしょう?
先に書いた、噛み合わせの治療は良くない、必要はないという強いエネルギーで書かれているHPの、過激とも思われる文章を読むにつれ、何を指しているのだろうと思うのです。歯科に関わる仕事の多くは、結果、噛み合わせに繋がります。
- 歯を削る事なのか?
- 補綴をすることなのか?
- 入れ歯を入れることなのか?
- インプラントをすることなのか?
- 他の何かなのか?
でも、どれも否定されてしまったら、歯医者の存在意義は無くなります。
顎関節症に罹患してしまったら、その患者は一生、スプリントで過ごすか、薬漬けか、あきらめるか、その組み合わせか、救いがないとなってしまいます。
でも、スプリントは長期入れる事もリスクがあると、熱く語る文章もある。
救いは、顎関節症における、顎の痛みに関しては、加齢とともに減るというデーターがある事でしょうか?
でも、それまでは、大事な人生を、世捨て人のように生きろという事でしょうか?
考えてしまいます。
顎関節症って何?
噛み合わせの治療って何?
なんだと思います?