1)色々とあるようで
様々な事情と云う色があるようで、どうやらそれぞれの性格を受け入れていくしかないのかなって思う今日この頃です。
この東京の知事は、アッシからみるとあたかも皇帝様のように放蕩三昧を当たり前の如く必死に働いて宜しく頼みますと納めた税金を楽しく使われてくれているようです。
言い分を聞けば、“そうなのかな~”って、受け入れるしかないのでしょうかね。
隙間を見つけるのか、どうすれば日本人をダメな子に出来るかその証明を生きがいにされておられるのだろうなって認めざるを得ない情報の方々は、立派に押し紙という手法での粉飾をされておられるようです。
素知らぬ顔を見るにつけ“そういうものだろうな~”って、受け入れるしかないのでしょうかね。
ダメな子論者の彼らにすれば、それでも天の声として受け入れる事を求められておられるのでしょうか?
ラップする戦争が目前だ・独裁主義の社会だと張り切られている集団に迎合されたいのか18歳に被選挙権をと、張り切られる恣意的方々や、名前も公約も募集された政治の方々を見るにつけ、“そうですね~”と受け入れないといけないのでしょうかね。
18歳の当時のアッシを思い出しても、責務を果たせる力などあると思えないのですが、青臭い現実を知らぬ理想で愚衆政治を体感しましょうという招待状なのでしょうか?
著名な学者先生は“国民怒りの声”という政治の仕事に関わられるようです。侵略行為を延々とされる行為のシナに怒れる声を届けるのではなく、憲法では保障されていない侵略から守ろうとする行為は、いつしか自説をつぶされたと、変換され怒れる側に立てとあおられるのでしょうかね?“そうですね~”と、受け入れないといけないのでしょうか?
2)そもそも受け入れるとは何なのだろう?
生まれた時代と社会が悪ければ、個人の努力など関係ない。今、仮にシリアやイラク、アフガニスタンとかで生まれその民として生きているなら、楽観に生きる事も、夢を持って生きる事も出来ないと捉えます。
そもそも国が崩壊状態だから、その崩壊に巻き込まれるしかない。時代が混乱と暴力にあふれている時に為す術などある筈がない。
命を維持するのに必死な時、社会を省みる余裕など持てる訳がない。そこに自己責任と云う言葉が入り込む余地などあるとは到底、思えません。分かりませんが、逆に生きる事に必死な時、社会を見渡す力は育まれるのかもしれません。
人の人生など個人の努力よりも社会の動きに左右されると表現する方が正確な気がします。
アッシは門外漢ですから間違っているのかもしれませんが、世界的に“何か”が変わろうとするとき、社会に襲い掛かるかもしれない“何か”から備えをするのは当然なのかなって思います。『社会が壊れる』という表現が正しいのか分かりませんが、“何か”によって襲われる如く、その時が差し迫っているとします。あまりに襲われる事からかけ離れている社会とすれば、その備え事態ですら社会が変わると受け止める人がいるのだなって思い始めてもいます。
人生で大事な要素に、どんな職種に就けるかという事実に変わりようはないのかもしれません。社会が変わらなければ、これまでの価値観のように『自分のせい』と受け入れることは当然なのかもしれません。
でも、社会は当に変わっているという捉え方の方がアッシには受け入れやすいです。バブル時代然り、グローバル化時代然り。こんな時代表現のどこに、個人の努力が凌駕する力になりうるのだろうと思うのです。大企業であったスリーダイヤモンドが吸収される時代です。
『自分のせい』という言葉が入り込む余地などないと思うのです。
“時代が悪い”という言葉に置き換えてもよいと思うようになっています。
“時代が悪い”という言葉に対して、アッシには受け入れがたいと思う人々の主張には、“安部政治が悪い”と言葉に置き換えた扇動を用意している気分にこの頃はなっています。
<自己責任>という美徳感の根底にある「自分のせい」という価値観の前では、“時代が悪い”という言葉は、簡単に打ち消されます。
この打ち消された瞬間、ムジナの如く出てくる甘いささやきや行動には、とても危険な匂いを感じてなりません。
地に足をつける余裕があるうちは、“何か”に対して真剣に考えることを要求されるのかなって彼らを観察するにつれ考えるようになっています。
3)人生の時期も色々の筈だから
歴史を知る事を憎む情報の方もおられるからややこしいし、事実よりも思い込みたい思想観から判断を導こうとされる政治の方がおられるから、中々否定する勇気が出てこない。こんな前提の弱い話ですが、不勉強のアッシでも、歴史を眺めるとよい時期もあれば・悪い時期もあることを感じます。
弱い人間であればあるほど、誰かのせいに出来る責任転換の快感は眩しいものです。でも、快感を味わった後は、惨めな苦いものだけが残ります。アッシの場合、特にそうです。“時代が悪い”という事実と、自分に来る責任はまた違うのでしょう。客観と主観という差になるのでしょうか?
時に、この主観と感じる責任の根源はどこから来るのだろうと考えるのです。きっと、公の精神なのだろうとようやく、理解できるようになってきました。
いつまでこの精神を保てるか分かりませんが…
“時代が悪い”という事実を受け止めれば、“社会が悪くなる”も道理のような気がします。そんな時に、「自分のせい」という価値観に全てを縛られても仕方ないと思っています。この価値観を利用する蝕む要素や要因は、とことん排除すべきと考えます。
むしろ、今、アッシが出来ることを背一杯。公の精神に置く事なのだろうと思うようになっています。
何か”が用意している社会への価値観は奪い合いと予測しています。奪い合っても、足りることはないと思います。
金目に満足できないから、ますます放蕩をされる。
事実を伝える事で、考える事を尊重するより、センセーショナルな批判で売り上げを増やす行為の行き着いた先。
自己責任という価値観を利用した見返り方策。
地位を守るためだけの自己保身。
そんな風に、ひねくれたアッシには感じてなりません。
情けは人の為ならずの精神にしか、“何か”が用意している奪い合いの価値観と対峙する方法はないように思うようになっています。
分かち合えば、奪い合えば足りないものも、余るという状態にするのでは?そう考えるようになっています。
くどいですが、奪い合いしか求めない価値観に縛られた方々とはとにかく距離を開けるしかないと思っています。
シリコンを「どっかに置かれて」よく眠れました。と、微笑んでくれた患者との会話から思った事でした。線維筋痛症でした。
でも、調子こけません。
「眠れません」そんな連絡が来る。別の方です。
こんな時間で生きています。
また、考える以外なさそうです。
まだ考える力(相当草臥れていますが)が残っているようですから、考えます。
おしまい