1)主張が違うというか
アメリカの大統領が変わられました。アメリカの方々が選ばれた方です。とやかくいう物でないと理解しています。インターネットの力と、抗いたい力:反グローバリズムと言えば良いのでしょうか。その力が大きかったのでしょうか?
今の社会を心から愛せない力が、番狂わせに繋がったのでしょうか?
ネットの力は既存のメディアに仮に狙いがあったとするなら、ことごとく弾き返した事になるのでしょうか?
ただ、ふと思います。個人としては余りに偏向ぶりを感じる時もあります。その結果、テレビは本当に見なくなった気がします。
上手く言えませんが、事実をうまく情報として発信できないものかと考えたりもします。
2)隠すより、別の手立てはないものか?
隠しごとのような繰り返しは、負のエネルギーに繋がる気がしてなりません。どうなのでしょう。隠し事を強く、隠し事で無いと仕向けようとすれば耐えられない感情が生まれる気がしてなりません。この感情から遠くいるために、情報の方から一歩置くという知恵が、見ない、読まない。その上で、調べるというか確認するという行為に変わっていった気がしています。どうなのでしょう。
その感情は、暴力が隣り合わせの渦巻く個人としては嬉しくないエネルギーの温床になる気がしてなりません。行き着くところまで行けば、立場の違いを逆に認める余裕を失い、逆にリアルな暴力を招く気がしてなりません。
それが、今までの世界秩序が壊れるとか、そんな表現に変わるのかもしれません。それが、新秩序に向かって、強い指導者が誕生しているのだという表現になるのかもしれません。
その中で、現状が変わる事を一切認めず、優柔不断でうろたえる様を揶揄しながら、政局だけを求め続けておられるのかと勘繰りたくなる政治の方や、情報の方には益々、距離を開けたくなって仕方ありません。横の国の右往左往ぶりにどうして、あこがれるのか、嫌な感じです。
“らしく”という言葉が実は、意味を持つ気がしてなりません。
この“らしく”を根底に立ち向かう以外、アッシ個人は芸がないようです。
3)未来という将来は見えていないし。
大量に情報が蔓延っているとはいえ、上手に摘まめる能力があって相当に頭のいい方なら予測できるかもしれません。でも、アッシは無理です。世の中など見通せる訳がない。未来という将来は、何も決まっていない。決まっていない未来を予測する人が仮におられたら、その予測された数だけ見通しはその景色が違うと思っています。だから、参考程度が一番良い。そして、明らかな願望や偏見は最初から無視を決め込むに限る。
ある種の願望へ誘導するがごとく影響を駆使されようとされる種族の方々とは一線を置くに限る。それが、“らしく”という観点から外れていた場合、警戒するに限る。
では「個人の努力では限りあるじゃないか」と問われれば、多分、その通りと寂しく呟く以外、アッシには思いつかない。でも、努力は許される自由がある事を忘れてもいけないと思う次第です。
考える葦は「何かに補償の下、思考をする事」ではなく、「何の補償もなく自らの良心に従い思考する事」そんな捉え方をするようになって来ています。備えあれば憂いなしという精神は保ちつつも、最高のイメージと、最悪のイメージを持つ事から、考える葦である自由が担保されるのかもしれない。歳を重ねたせいの程度です。
4)やはり
これ以上、計測装置の開発は出来そうにないと測りに関しては最終章に入ると決めました。開発する費用は借財で賄おうと覚悟しましたが、個人が返済する上では一杯と言った所でしょうか?誰もが歪みが確認できるというテーマは諦める事にしました。悔しいという感情は当に、どこかに置いてきました。頭にイメージしたデザインは忘れる事にしました。
頸部の角度を測る時、咬合高径の試行錯誤は解決すると思考しました。偶然見出した反射というものも、学会では静寂な時を過ごさせて頂きました。
例えば、片手が全く上がらなくなり、物が持てなくなった患者。医科では異常が無いという判断から、顎位を落ち着かせながら、2か月たった今、手が上がりシャンプーが出来るようになる。物も座位であれば持てるようになる。その動作は、何かの役に立てばと思い動画で記録していますが、多分、静寂の時を過ごすのだろうと学習してしまったようです。
例えば、唇を閉じると根先が痛いと訴えた患者。細かいメカニズムは割愛しますが、お尻の凝りを取った時、痛みが消える。あ、歯は少しだけ触っています。少しだけ、CRの余分な接触場所を見出して、ほんのり磨いただけですが。人の体は、まだまだ未知なものだらけです。頬側で、咬合とは一切関わっていません。
例えば、線維筋痛症患者。圧痛点は消えていますが、重い。という反応。やる気が出ないというお言葉。
触診で、まだ頸が沈んでいる事を認めざるを得ない。(あ、医学用語ではないです。感覚用語です)ですが、咬合高径の不足を認めざるを得ない。口腔反射を誘発させ、趣味レーションの結果、頸部の変化を確認。確認は触診と患者自覚になるのでしょうか。
頸部を変えた瞬間、やる気が出る。
もし、先に計測が出来ていたら、予測はできたかもしれない。
そこに最後の意地なのでしょうか?予め用意したく思った次第でした。
計測は相当に問題を適切な表現ではないかもしれませんが、感じ取るというか読み取る事を可能にさせてくれると認識しています。
淡々と公に問いかけたく動く意志は変わらずいたく思っていますが、その心は静寂な中に置く以外ないと割り切ってもいます。只、もっと情報量を減らさない限り共有はあり得ないと認識もしました。
只、生きている内には全ては出し切れないと、納得しつつあります。この感情もとにかく、静寂の中に置こうと割り切ると事、これも始めないといけない事のようです。押しつけはいけません。共有から、きっと、“らしく”が始まると信じる事。これだけは忘れてはいけない。
おしまい