■2013/11/17 王様の耳はロバの耳 なんていう話2
あたしの所の話かって?まさか!
言い聞かせている事は、こんな感じ。“一貫性とは想像力を欠いた人間の最後のよりどころである”だから、粘り強く、粘り強くしかないようです。あたしの場合。
単なる物語としてお読みください。身体と歯が関連する訳があるかどうかも分からない時代なのですから。
患者はA先生と出会う事で、一時的であれ心の安らぎを得た。少なくとも、A先生は粘り強く患者の言葉を聞いて、ここが高いと言えば付き合ってくれ、ここが低いと言えば付き合ってくれた。これが、前回までのお話概要。付け加えるならば、A先生と診療内科のお薬のダブルの対応だった。
そうこうトライしている内に、とりあえず仮付けで、且つ仮として、補綴物を入れて見る運びとなった。患者には、A先生しかいない。だから信じて見る事にした。そして、しっくりいかないまでも一応は全体に補綴物が入る所まで来た。
生活は寝た切りの時もあった。でも、起きてとりあえず活動出来る時もあった。のたうちまわって痛みに耐えても耐えきれない時とは雲泥だった。しかし、その関係も終わる時を迎えた。
患者の転勤だ。
A先生より、通院しやすいという事でB大学を紹介された。ここで登場する先生をB先生とする。
不安を抱えながら、B先生の下を訪ねる。しかし、B先生は噛んでいるし、咬合は安定しているから順番に補綴を変えれば大丈夫ですねと、患者からすればあっさりとした言葉を気さくにかけられた。とんでもない。
今でも苦しくて、何とかしのいでいるのに…薬の力で何とかしのいでいるのに…
診療内科の配慮も無ければ、いきなり補綴を順次治すと、気さくに言われても…脳裏には、のたうちまわった記憶が蘇る。
『お母さん』再び、母親の下に心を癒してもらいたく、1本の電話が鳴る。只、そのつらさを、苦しさを聞くしか母親には出来なかった。只聞くしかない。この子の失った8年を…でも、堪えるしかない。何時かは、そう、何時かは…
患者は、A先生に連絡を入れ、相談をする。今度は、歯科と診療内科の併設をしている、いわゆるリエゾンを取り扱っているC医療センターを紹介した。患者は、ここなら歯科と診療内科があるから何とかなるかもしれない。ほのかな安堵を得る。少し遠くなるが、B大学よりは、期待をしていいかもしれない…引き継いだ先生をC先生とする。
心療内科の先生を、ここではD先生とする。D先生は、A大学の心療内科の先生より患者の気持ちに理解を示してくれた。リエゾンの関係を持っているだけ、良く患者の苦労に理解を示してくれた。
この先生は、私の気持ちを分かってくれる。患者はひとまず安心出来た。そして、ここなら私はもう少し良くなるかもしれない。ほのかな希望を見いだせる気がした。勿論、不安しかない。でも、A先生のようにきっと…
そして、治療が始まった。
仮に入っている事は了解しています。現状の削り方のまま、場合によっては若干の修正をして、いえ、基本は現状維持で本歯を順次入れていきましょう。また、場合によっては、再調整もしていきましょう。
初日は、ひとまず安心が出来た。
母親も、悲しい声ではなかった分、安心が出来た。そう、今は安心が出来れば、それでいい。それでいいのです。
人の世の移ろいやすさなどと言う言葉がある。気もそぞろと言う表現もある。もしかしたら、綺麗に落ち着けるならばこの表現が適当なのかもしれない。
話が違うという言い方が妥当なのかもしれない。
補綴物の高さが合わない!この衝撃に患者は出会った。その瞬間、過去の何年前が思い出されていく。『お母さん』
「先生、何か高い気がするのです。」
“そうですか。なら少し、低くして見ましょうか。”
実際、確認すると、その歯しか当たっていなかった。当然C先生は、確認の下、咬合紙が付いている所を落とす。
「先生、今度は低い気がしてならないのです。」
“えっ?”
C先生が確認すると、今度は明らかに当たっていない。
こんな経験など、C先生もした事が無い。
あたしが、どっかで見聞したお話なのか、フィクションです。
で、身体と歯が関係ないという関係ない派もいれば、身体と歯は関係あると捉える捉え派もある。さて、ドラマであれば、この先は…と言う話になるのでしょう。でも、臨床現場では、そうは行かないのか、あるいは、通用する物なのか…
さて、どちらでしょう。
今回は、ここらへんで、おしまい。