■2014/01/09 噛み合わせは、なんじゃろな?(ホイっ!)
まだ正月気分が抜けないせいでしょうか?生き方という事を何気に考える時間が“ふと”多い気がしています。動機は何であれ、職業として歯科医を選んだのが今のあたし。何でこんな書き出しを選んだかと言えば、幼稚園から成りたくない職業の第1位は、ズーット歯科。それが、何故か、この職業を選んでいるから人生とは、色々と良くいったものだと思っています。
これ以外に糧を稼ぐ方法はあり得ないくせ癖に、“生き方”を考えるのだから難儀な性格と自分に苦笑いをしてしまいます。面白い物です。
決める時とか決断する時とか、そう言う事を求められたら密かに、多分、凄く迷うタイプだと自己分析の結果では思っています。
慎重と言う言い方もあれば、小心者と言う言い方もあると思います。アホなんで、どちらでもいいと気にかけてもいません。でも、密かに苦悶する性格なのは確かのようです。
で、人生の通り過ぎた道、道に、そう、例えるなら門とでも表現すれば良いのでしょうか?この門が、次の展開に繋がっていたのだなって振り返ると思える瞬間があります。過程の区切りが門なのでしょうか?いいえ、あたしには、分かりません。
ただ、多分言える事は、場面・場面に合わせてそれぞれの景色は違うのだろうけど、そこには延々と続いている、もしかしたら障害物だらけの困難な道があると言えるだけなのかもしれません。この道の意義や重さや、意味は歩く当事者本人しか分からない物だと思っています。そして、その門を前に立ちすくむ気持ちも、思い切って入る勇気も、転がる惨めさもおそらく当事者しか分からない物だと思います。カッコ良い言葉で表せば、孤独を受け止めるとか、引き受けるとかそういう言葉で表すのでしょうか?
難しいですね。
唯言える事は、自分の頭で考えるしかないのでしょう。おこがましい表現かもしれませんが、孤独を受け止めるなどと言っても、実は、弱さを克服し強くなるという事を意味しているだけなのかもしれません。極論かもしれませんが、決して、他人にどう思われるなどという隙間は持ち合わせない気がしてなりません。
でも、そこには、自由と責任という表現は絶対に違うけれど副産物が得られるのかなって思う次第なのです。果実と言う方が良いのでしょうか?
逆に、孤独を恐れ、責任をすり抜けたければプロパガンダに人を巻き込んだり、頼ったり、依存すべく訳の分からない標識を掲げてみたり、本質から離れた所から見当違いの上から目線で包ませようとしたり、明後日からの正義に立ったりするのかなって想像力を膨らませたりもするのです。
分かりませんが。
でも、弱さや孤独と仲良くする事は、あたしは、多分、大事と思っています。だから、生き方という物を、この歳になっても考えたりするのかなって思うのです。
メジオとかブレーキングフェイシャルという概念を、10年以上気がつけば悩んでいました。アホなんで、10年考えるしかあたしには方法がありませんでした。医療と言う現場は(といっても、あたしは歯科医ですので、歯科しか知りませんが。ダジャレじゃないよ。)自然科学として見えている物と、分かっている物と、受け止められている物と、まだ認識されていない現象の塊の中で存在している“いわば中途半端な”存在と思う時があります。これは、あたしの所感ですので、どのような感想をお持ちになられるかは委ねるしかないと思っています。全てを知らないから、あたしはアホだよねって、自分の事を思っています。
反射系の感作異常に慢性疼痛の問題があると直感的には判断しました。(示唆する報告書と言うのか論文は、結構出回っていたりします。)反射系が、どうにも収束できないから得てして、問題が増幅していくとでも言えば良いのでしょうか?
では、その時咬合と言う物はどう関わるのだろう。で、学術用語ではないと認識しているのはあたしの立場ですが、噛み合わせと身体の関係と言う言葉が存在している。この生れた意義は?と、考える訳です。
この言葉の概念のバイパスとでも言えば良いのでしょうか?上手に、接合する考えの手法、それに、このメジオフェイシャル。ブレーキングフェイシャルと言う言葉が存在しているのではないかと、直観的に思うようになるのです。
働けない痛み→働ける痛み。紙一重で痛くて仕方ない。から、どうやっても痛みの消失や軽減に関し、小康状態で対峙していた患者。
本人が認識できるレベルに痛みが減った。(すげー嬉しかった)
「患者の苦しさは並みでないのですよ。」と言う言葉を噛みしめながら、もしかしたら、これがブレーキングの見極める触診なのかなって、“ふと”思った。
まだ見果てぬ“それに”どうやらあたしは拘るしかなさそうです。
ま、そんな感じで。気が向いた際に、こんなお話でも。舌が真ん中に居られる傾向が出てくればいいなって、そんな感じ。10分はいられた事を確認したから、“良し”としました。
もう一人の線維筋痛症の患者、ま、良いんじゃない。て感じ。特記する事も無いでしょう。苦労などあたしの心の秘密の箱のお話でしかないから。
唯、小話なら一つ。
理不尽にICUに行った時もあったな。インプラントオペ後、筋の活動性の問題を予測し、装置を渡す。装置の装着を忘れられて、結果、ICU。慢性疼痛って、場合によってはとてもリスキーと言う事を知って頂ければ良いのでは?そんな感じ。
*インプラントが主原因ではなく、極度の過剰接触とインプラント後の筋の拘縮から起きたと判断しています。事実、別の部位のインプラントは装置のお陰で、何もなく終わります。
**当院は、インプラントは外注に成ります。
噛み合わせと言う言葉が、学術用語であれ、なくても、噛み合わせが大事と言う言葉は、何を基準に定義づけしているのか。その認識がどうなのか知りたいと思うアホなあたし。
あ、一言だけ、添えます。
後ろから皮肉って笑って、“ほらね”という人物像は、あたしは好きでないです。
周りがどう思っているかと知りもしない周りに依存して自分を正当化させる人物像の方は、相当に苦手です。ま、いわゆるプロパガンダな人とでもいうのでしょうか?
そんな人物像より、自分をさらけ出し100%の力でぶつかっていく人物像であれば、おおらかな見方も、自然科学である以上受け止めていただければ、って、願う立場にいます。
人間の身体は素晴らしい。その素晴らしさの前で、いつもたじろぐ。
おしまい。