■2014/01/30 デンタルサイクルって、単語じゃん!でも…
デンタルサイクルに関し、歯学部で学んだ際は“素晴らしい表現だな”って結構、感心した事を覚えています。
で、このサイクルの陥らないように治療を心がけなさい。
”なるほど“
で、歯を削れば、もう元には戻らないのだから、慎重に期を見極めなさい。
”なるほど“
でも、歯医者を糧にしなければならない。
で、歯を削って「何ぼ」の仕事。じゃあ、どう考えるのだろう?
いわゆる一人妄想状態っていう奴です。
デンタルサイクルを中心に歯科を考えると、「どうなの、歯科治療は?」ってなるし、歯科治療って何だろうと考えると、「デンタルサイクルって、どうなの?」
と言う具合に、(相反すると思われる)事象が、頭の中で葛藤としてぶつかり合う訳です。すると、面倒になって単純に考えて良いと、単細胞な解決を図る訳です。
きっちりと歯科治療をすれば、デンタルサイクルに陥らない筈!
あるいは、確率が上がる筈!
ん?待てよ?
また妄想が始まる訳です。今度は、疑問編の開始です。
「じゃあ、歯科治療をしっかりとすれば、もう歯科治療を受けなくて済むという訳?」
「でも、物には限度があるじゃない。あり得るのだろうか?」
「じゃあ 、デンタルサイクルに陥らない治療コンセプトなり方法が無いだろうか?」
「でも、どうやら概念として存在しているようだ。」
で、悩み始める訳です。
「単語が、概念?おかしくない?」
デンタルサイクルという、歯科治療のフルコースに患者を陥らせないように、戒め?掟?約束?ま。そんな感じの象徴としての存在が、どうやらこの単語が
生き残っている理由ではないかと思っています。
しかし、問題はこれをどう考えるか?いえ、この単語をどう見つめるか?そんな所なのかなって、思ったりします。
デンタルサイクルという単語、実は、単に歯科治療の未来への歴史を暗示するコースを一言で表したものでしかありません。
それに膨らみを持たせ、歯科従事者に何かを伝えようとしているのかなって
想像する事もあります。世の中には、そんな何かを暗示させるあたかもサイクルという単語で象徴される現象もあるのかもしれません。
つい最近ですと、こんなサイクルを見つけます。ま、適当に流して頂ければ。
過去を科学的検証も成されず、過去の人間に非を被せた離言もあるようです。検証はせず、真実かどうかの検証はどうやら行方不明のまま、名誉を毀損した離言もあるようです。蔑視のおまけに、“平和の少女像”を産み出したサイクル。事の解法は、言い出しっぺによる事実の公表だと個人のあたしは思っています。事実であれば、歴史を受け入れる勇気を持つべきなのでしょう。事実でなければ、歴史に唾を吐く行為になると思えてなりません。
どっちなのか、さっそくでも事実が公表され、検証の評価を受けてほしく思っています。でなければ、考える事も出来ないという物です。これなども、離言が生み出したサイクルと言えるのでしょうかね?
と、まあ、抽象的な表現でつい最近見つけたサイクルを書いてしまいました。
話を戻します。デンタルサイクルに陥らさない為に(歯科医療に従事する人)、これに陥らない為(歯科治療を受ける人)この単語を、この言葉をどう捉えるか、多分、そこに大事な何かが隠されているような気がします。
食す事は、健康の根源の始まりだと思います。
そうなる時、歯科の関わりは避けては通れない物になる気がします。肉体にガタがくるのが時間とお付き合いする際の約束事のようです。
先に紹介した未来の歴史をどうすれば変えられるか、多分、歯科に関わる人は、知恵を絞りながら、この時間の経過でのフルコースの象徴のデンタルサイクルという壁と向かい合っているのでは?と、個人の意見として捉えています。
この事実を受け入れる?というのか、知る?と言う所から、何かが始まるのだと思うのです。この何かは、多分、一言で言うならば、健康への意識に繋がる
事になるのかな?
そんな事を考えて頂ければ…
あたしは、あたしの考え方を紹介したく思います。
おしまい。