世界との繋がりをあたしたちが認める限り、やはり世界を意識すべきと思う時はあります。どこかの学者さんが言っていました。日本の常識と世界の常識は違う、その意味を正しく理解すべきでしょうし、日本の常識が全て通用するとは思ない事だと。
ま、よその国の国旗を燃やす事に平気で、それを戒める知識人を育てる事が出来ない国もあります。それも知るべきなのでしょう。
国益の為なら19世紀の重商主義のように、歴史の改ざんを平気で行い、平気で嘘を並べ立て、あたかも、あたしらが悪のように心理戦を吹っ掛けて来る国もあります。
それも、常識なのでしょう。
日本がしないから、日本人がしないから、しないはずではなく、するのが当たり前と思えば、付き合う距離も見えるような気もします。手を変え、品を変え、あたかも朝貢国扱い?と思われる行動は些か、寂しいですがね。違う交流が出来れば、本当は嬉しく思いますがね。
ま、さておき。
多分、タイに行ってあたしも相当に意識が変わったように思います。そんな体験から来る芽生えた思いが、相当に今回の文章に影響を与えているかもしれません。
タイの話はいつ?
と、思われたら嬉しい限りですが、今は、このペースで書いて行こうかと思っております。暫し、お付き合いを。
インフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンを知らない方はいないと思います。しかし、同時に、これは、保険制度で保障されているものではないという事実をどれだけの方が知られているのだろうって思うのです。
物に紙幣価値を見いだすが、技術に見出さないという無意識の価値は、時に保険制度の弊害かなって思う時もあります。お任せしますが…
日本語という壁と、ガラパゴス?こんな感じかしら?
ある哲学者は、戦後間もなく日本人は日本語にアイデンティーを求める。何て本を書いておりました。フムフムと教養を磨きながら感銘を受けた様な、感心したような…
ところが、グローバル化は日本語という壁に閉ざされている日本をクローズアップさせたのかもしれません。その壁は守られるという利点も、沢山あると思います。
でも、同時に、考えが世界から孤立しやすいという難点を導く時もあるでしょう。
ま、世界で水を安全に飲める国は11国ですってね。
そうなりゃあ、価値観も違うようになりやすいでしょう。
島だけを見れば、真ん中ぐらいの背丈も、海まで広げれば、いきなり一ケタの大きさ。鈍感な分、大きさを認めたくない所はいちゃもんを云って来るでしょう、嫉妬?不思議な事実を持つ背景に鈍感が故に、世界との価値感がどうしても、世界との常識と違う範疇になりがちかも、ですね。多分。
だからって、全てを治そうとしても、無理ですわ。その全てを治す必要も無いし、違っている所をはっきりと自覚した上で、外国と付き合えばいいだけですわ。その為には、沢山外国を知る方がいいのでしょうね。
そう思います。
沢山外国を知れば、日本製が売れないのではなくそこまで求められていないから、偏差値が高すぎるから付いていけないと、見かたを変えればオバースペックなんて事も、言えるかもしれません。
環境と言う因子や、日本語と言う独特の言語構造や、日本人独特のこだわりがいい進化をこれまで、作って来たのでしょうが、いつの間にか世界標準を忘れる形になったのかもしれませんね。
どんなに優れていても、世界の形と違えば、市場と言う観点で見た際は、それはどんなんに技術が世界を凌駕していても、商品として考えれば、駆逐されるという不思議な現象になるのかもしれません。
と、あたしは経済学者さんでも無いので感想はこれぐらいにします。ですが、歯科に関して言えば、世界標準から外れて行く事の一つに、保険制度の疲弊もあるならば、どこまでその保証を求めるのか、認めるのか、そんな事も考える必要性がある気がしてなりません。くたびれた物を、むりくりやり取りする事ではない気もするのですがね…
暇があれば、週の行事のように行う世論調査も、解散しようと騒ぎ立てるのも、今や、日本の独特のガラパゴス現象で無い事を祈りたく思いますしね。仕事をしている証明は、形ではなく結果の方だと思うのですが、実務よりも雰囲気で見せる方が仕事している感じと言論に関わる人々の価値は変わって来ているのかしら?それは、仕事でなく、烏合化と言う表現だと思いますが…
これが、ずーっと思っている謎?
ほんじゃ。