咬合接触、いえ、過剰接触と筋反射と呼吸という事を、ずーっと課題にしてきました。20年ぐらいかな?ま、個人の趣味という事で。
顎位に頭位と下顎位の協調で成立するのだろうなって考え、で、この位置の協調に咬合があるはず。そんな事を考え、その協調には反射が関係して、と、個人の世界観ではひたすら。そいつだけを求めて来たように思います。咬合ってなんだろうと、相対的位置関係の意味付けを探してきたように思います。
ま、考えるのは自由だから、ひたすら考え、過剰接触が無くなり肺に空気が入るというのでしょうか?その感覚を共有でき始めた時、ちょっと、嬉しかったです。
ま、個人の気まぐれという事で。
ふと、ニュースを見ると、ポエムに戦争法案とポエムな想像というか妄想がはびこっていいるように感じます。軍靴でしたっけ?映画が本が自由に出版できないのでしたっけ?何か月前も、そんな言葉が闊歩していましたが…で、今は独裁主義と徴兵制という状況らしく・・・共有も共感も出来ないからつらい所です。
一体、どこの国の事を云われているのか?妙に悲しくなります。
本当の独裁主義とか、自由が無くなり、暴力が支配する国とか…崩壊国家?とでもいえば良いのでしょうか?こんな表現になるのでしょうか?こうなった時、人権などとは安っぽい言葉になります。そもそも人権という言葉が尊重されるようになるのは、100年も歴史があるのでしょうか?公民権運動とか、女性解放運動とか、そんな運動が盛んになった60年代とか70年代が過ぎて、ようやく尊重を当たり前にしようと、民主主義国家でかつ豊かな資本主義の国家に誕生したにすぎないのではないかと妙に思ったりします。
空気のように感じる平和とか、当たり前のように持つ事を尊重される人権の意識というのは、人類70億(?ですか?それとも、もう少し多いのでしょうか?少ないのでしょうか?)そのうちの何億人が持つ事を許されるのでしょうか?きっと、5億人もいないと思います。
経済が破たんしていない国って(定義と条件設定は難しいです。当然議論は分かれると思いますが)、仮に社会保障というレベルが充実している価値を共有できる権利を持つ人数は何億人なのでしょうか?これも、5億人もいないと思います。
さて、その5億人もいない所に、難民?移民?を引き受けようという動きの持つ意味は、とてもゆゆしき問題と思います。
さて、独裁政治で、一党独裁で、国所属しなく党に忠誠を誓う軍を持つ国が、あたしの国の横にいて、この国を侵略しようと狙っている。彼らの機関誌には、その必要性を熱く説いているようですが、あたしらの左巻きの方は、無いとポエムにおられる。
反日教育をあおっていても、ポエムにないと言い切られる。
でも、あたしらの国はポエムに独裁国家で、自由が無くなる国家だとポエムに決めつけられる。
始終、あたしらの国の悪口をいて、領土を泥棒して、同胞を殺戮して、反日教育をして、対馬をよこせと言っていても、左巻きのポエムを通すと、あたしらが悪い子でないと行けないとなる。
そして、陣営を変えようとされている。ポエムにそれはないと、左巻きの目には映るらしい。
同胞を拉致して核を持っていても、左巻きのポエムには拉致はなく、仮にあってもあきらめる方が良いと、犯罪であれ、日本悪い子論が有利になる。
別にポエムの世界には、どうやっても理解には到底行きつけないだろうから、割り切るととして、左や右という価値観の垣根を越して、自由を守るため、人権を守るため、ポエムな議論ではなく正々堂々と未来を創る礎の一歩を始められないものかと妙に思ったりします。
平和という価値観や、人権等価値観は、多分、崩れるスピードは圧倒的に速いと思います。崩れる時はね。そうならない為の、自衛策という観点で、垣根を越して議論は進まないものだろうか…そんな事を願います。
ポエムなデモでないなら、せめて、国旗を持ってデモをして欲しく思います。国を愛し、国を憂いたデモであるならば、それがあるべき姿の様な気がしますが…
関係ありませんが、去年の流行語大賞の一つは集団的自衛権でなかったでしょうか?
あるフィルターを通すと、いきなり云い始めたというのは、どうにも共有できません。
このデモは何が主体なのか、どうにも理解ができません。国民が求めているといわれるなら、国民へ愛国心を示す事が、最低限のルールだと思うのですが、国旗を持たないで国を憂うという言葉にはポエムな響きと、この国を駄目な子、悪い子にしたいこの国の人ではない方々の別な何かを、うがった見方と承知つつも感じてなりません。後は、ポエムに日本人を性奴隷商人に仕立てたかった報道の(?)方々なのでしょうかね?
いずれにせよ、過剰接触がとれて呼吸の感覚が変わる瞬間を共有できたのは、ちょっと嬉しかった感覚でした。そんなとりとめもないお話でした。