なんだか、締りの悪い文体が続くなって、読み返す際(この頃は、たまに読み返す時があります)思う時があります。なぜだろう?と妙に、考える時があります。
昔、少しだけお芝居に関わりを持った頃合いがありました(少しの期間ですが)。で、途中から、ストーリーを逸脱する事はもちろん出来ませんが、主役であれ、脇役であれ、大事な事は存在感なのだろうなって納得するようになります。云い方を変えれば、この存在感だけは、個人が発揮できる力なのだろうなって思うようになります。
ま、そんなわけで存在感という視点で、何かを書きたくなりました。少し、私の履歴書歩くなるかもしれませんが…物書きではないので、ご容赦いただければ。
臨床家の端くれですから、臨床で感じた事を記載しながら存在感を考えてみたく思うのです。
1)身長が高いという例から
身長の高い人は、それだけで身体能力が恵まれているように見えるかもしれませんし、他人より力強く見えるかもしれません。ただ、言える事は無言でも存在感がある事でしょうか?実際、男の子であれば、女子に好かれる為の大事な要素の一つになるかもしれません。
唯、身長が高ければ良いのかといえば、また、話は変わるのかもしれません。
そういえば脊椎狭窄症な~んて言う疾患があります。(念の為に申し上げますが、私の仕事の域ではありません)唯、高すぎれば、腰椎付近に力が、ぐわんと加わりますから、これはこれで調子が狂うようです。で、姿勢起立筋を如何に鍛えるか?有名な考え方では、元陸上選手で高名な高野先生が壁伝い運動なんていうのを紹介されているようです。(ご興味がある方は、どうぞ、検索をされていただきたく存じ上げます)
さて、この姿勢起立筋、咬合に関わる筋肉の一つ咬筋も、その一つに含まれます。咬合関係が収束しない(落ち着かない)というのは、この姿勢起立筋の興奮に大いなる課題があると、個人としては見ていますが、科学というフィールドに入るまでは、仮説という域からは出られないのでしょう。
で、顎が痛いという事でお目に関わるわけです。触診をしながら、腰の痛みが緩和すると、顎の痛みが引く。顎の痛みが引くと、腰の痛みが引くという現症を互いに確認します。ま、これは臨床で出会う不思議な姿勢起立筋との兼ね合いという事で、受け流していただければ。この方は身長は高い方です。
で、仮にもっと、この方が成長をされて、2mになれば、果たしてどうってしまうのか?もっと、腰へ負担が行くのかもしれません。では、後10cm伸びたら、20cm伸びたら、どうなるのか?
運動能力と身体性の関係となると、大きな方の方が恵まれる可能性は高いと思います.ところが、大きければ是かといえば、鍛えればその強さもエネルギーも相当なものになると思いますが、運動能力を鍛える事も出来ないほどの負荷を肉体が覚えれば、鈍重にならざるを得ないのかもしれません。肉体の大きさには、高さもあれば重さもあると思います。この重さ(その肉体を維持するうえで必要な重さも含まれると思います)が、時に仇になり、スタミナを奪い、持久力を奪い、シャープさも消しかねないのかもしれません。
この収束しない関係で、負荷から逃げ出すための落ち着かない筋状態で、咬合を与えようとします。すると、補綴物は一臨床の経験からすれば、悲しい作品(暗喩と捉えてください)に仕上がるように思えてなりません。ま、どういった口腔状況かは、今回触れませんが。
2)筋肉をつける事と、あたかも鎧の如く異質な筋肉をつける事と
そういえば、ふと、気が向いてボディービルをネットサーフィンします。身長の高い低いは別にして、筋肉質というかボリュームと云えば良いのでしょうか?この身体の方が、力強く見える事はどうやら、間違いはないようです。極限までに、筋肉をつけるとどうなるのだろうと、興味を持ってボディービルの世界を触れてみた次第です。
方法とか、トレーニング法とかは、ご専門家に任せるべきですが、異質なまでにつける事も、また、別の問題をはらむ事を理解します。命を奪う事すらあった事例に出くわして、逆に、驚きを覚えます。詳細は、割愛します。
別に臨床の例を持ち出す必要はないのでしょうが、確かにトレーニングから作り出した(個人としては行き過ぎのレベルと思われる感覚を覚えた時は)筋肉が主体の時は、やはり、筋肉のありすぎる力強さのせいでしょうか?咬合を付与するという作業は、とても難しいという感覚を思い出します。同時に、筋肉がなさすぎというか、細すぎという時も同じ経験をしている気がします。
で、大きければ良いという考えも、限度を超す際、また、調子が狂うのかと考えるようになるわけです。確かに大きいだけで、十分に存在感が生まれる訳ですし。
3)社会で大きくなるという意味合いから
多分、大人になって社会に出る時、無意識に右上がりに自分だけはなれるものだという意識を持つ事が自然な気がします。分りませんが。ただ、言える事は大きくなるという意味が経済力をつけ、資産を増やし等の物質的側面を言うならば、おそらく、若く社会に出たばかりの人よりも、経験という時間を積んだ人の方が確実に得られる気がします。持たざるままでいる時は、おそらく自由です。失う怖さを知らないからという説もあれば、もともとお金を含め何もないから致命傷を覚える心配もないのかもしれません。体力もあるから挽回も可能なのかもしれません。
で、どこまで大きくするのか(増やすのか、増えるのか)、それぞれの方の仕事の性格や性質による側面、その人自身のキャラクターによるので決める事に無理があると思いますが、少なくとも小さくなろうという志を持たれる方は少ないと思います。
でも、どんな位置づけにいるとしても、存在感だけはどんな時期であれ、持つ事は認められる気がします。
4)存在感と何が何でも大きさを指向したいと好む結果の問題?
では、こういう存在でありたいと指向する事と、右上がりを守るために(右上がりでありたいがために)巨大化していこうとする作業には違いがないのでしょうか?
右上がりを守るために、先の話を例にすれば、自分にステロイドを打つ事を平気にする人も現れるかもしれない。自分を凄く見せるために、実は自分を傷つける人も出てくるかもしれません。その事に、自分が気がつかないから厄介なのでしょうが。鼻に付くとでも称すれば良いのでしょうか?
社会の木鐸という信用を逆手にとり、啓蒙・警鐘という存在感をより出そうとすれば、変な歴史認識を持ち出し、結果、国益をけがし凋落印を渡される集団も出てくるかもしれない。
その瞬間だけは、より一層の興味を引き、ビジネス的にも一見すれば大成功に見え、さらには、社会的に大きな存在になれるとします。でも、取り込んではいけない毒を取り入れた結果、国をけがす方向であれば誰にも攻められず(国家警察があれば話は変わるのでしょうが)、相当な意見を述べているという自己満足な姿には存在感がある様にはどうしても、個人的には思えません。それが、常にセンセーショナルな自虐史観を根底に、煽ると理解するように変わって行くのですが。
センセーショナルな方向になるよう、書き方を操作する事もその一例なのかもしれません。
でも、手口が見切られ、時代の求めるものとかけ離れている限り、凋落だけは決定していくのかもしれません。
全てをこの国の責任として押し付けて、この国から巻き上げる事に夢中な儒教の方々と、その協力から右上がりを実現している人も、存在感があるとは言えない気がします。鼻に付くという事と、存在感は別だと個人としては思います。あたかも寄生する姿と感じる様も、宿主役が耐えられるうちは、協力者含め、右上がりは成功するのでしょうが、宿主役が耐えられなくなる時、この姿は、凋落を意味する気がしてなりません。その時、何が起こるのかが実は、大事な気がしてなりません。あるいは、起こりうる可能性を抑止できるかが大事な気がしてなりません。
暴力という破壊か、抹殺というもっと、過激な行為か、そんな事が待ち受けている気がします。うまく言えませんが、、自分の器(うつわ)を超えた極大化に向けて暴走していくと、それは自らを破滅させる行為となる。しかし、今まで上手い汁をすすれてこれたからこそ、鼻の付く部分を消し去るためにも憎悪の対象を作り出し、向かってくるように思えてなりません。
破滅したくなければどうすべきなのか。もちろん、それは「自分の器を知る」ことしかないと思います。
どうなのでしょう?
5)終わりに
巻き込まれないようにするには、とても大変なエネルギーを要す気がします。巻き込むことで上手い汁を取ってきた鼻に付く側は、自らの右上がりの為に、よりややこしい事を考える気がします。
個人が出来る事は、考える事。”らしく"考える事以外、無いのだろうなって、割り切っています。
咬合は、バランスだと納得しつつも、このバランスの基準が曖昧な事が問題なのだと身に染みるには、相当な時間を要した気がします。自分の器を知る為の、時間だったのかもしれません。人生後悔だけはしたくありません。沢山の後悔を背負う事は生きてきた証なのかもしれませんが、人生の後悔は、きっと、たくさんの惨めを渡すと思うのです。プライドをどう育む?回復?そんな事を、ふと、考えてみたくなるきっかけが、存在感という言葉を思い出した時に、走馬灯の如く駆け巡った文章でした。
長くなりました。
おしまい