1)別にニュースの解説をしたい訳でもありません。つい最近、歯科医が医療法違反と、併せて一つの法人の破産があった事を知りました。ニュースに疎いのですね。全然、知りませんでした。
追いつめられて、『何とかしたく』すべきでない行為を選択してしまったのか?
もっと、金目を『何とかしたく』すべきでない行為を選択してしまったのか?
個人としては、何かを訴えたい気持ちも、何かを共有したい気持ちもある訳ではなりません。関係する方々が、その隠された姿を少しずつ剝がされて問題の本質を表に晒すのでしょう。
唯、医療法違反という己のライセンスに対して「なんと破廉恥な事を」と云う所が個人の感想と云うか所感と云う所です。そんな偉い人でもないです。ですから、一歩間違えれば正義感を押し付ける表現は極力避けたく思っています。
ところで、所感という言葉の意味って、仏様の言葉でもあるそうですね。行為が結果としてもたらす物。そんな意味も、あるそうです。
法人として尊い志も有られただろう。そして、その心意気で、行動もされていただろう。でも、畑が違う医療の世界に手を出された、きっと、国家資格と云う重みを勘違いされた瞬間だったのかもしれません。
難しいです。
でも、社会の矛盾と云う要素だけは、晒される姿には含まれて欲しくないと思います。
2)所感の意味って
所変わって、無免許で医療行為を行わせた結果、歯科医が逮捕されると云う事件を知ります。で、「違法とは知らなかった」「小さな診療所ではどこでもやっている」と、『何とかしたく』配慮を求めの言葉なのか、そんな噂が耳に入ります。廉恥の精神という視点では、寂しく感じます。
所感という意味には、心に感じた事。手に入れる事。仏様の言葉で、先の行為が結果としてもたらす物。なんていう意味があるそうです。
小心者なのでしょうね。自己に甘いせいでしょうね。社会の矛盾と云う要素は、もしかしたら隠されている感覚を覚えてしまいます。この違いは何なのでしょうか?
難しいですね。
でも、同時に、その行為で、手に入れた物・結果は決して喜ばしい物ではないだろうと云う感想は持っています。
3)矛盾って云えば、とりあえず解決するかもしれないけど。
あたしは社会学者でも、経済学者でもないので、分析力がある訳ではないです。
そう云えば、あっしらの首相が、正規雇用と非正規雇用の給与差をなくすという方針を目指されるようです。その意味を、無い頭を絞り続けます。
あっしは、報道の方々の恣意性を警戒する習性をいつの頃か覚えるようになります。空気作りの左巻きの方々の言葉と、言葉狩りに相当距離を置くようなります。でも、非正規雇用者の占める割合という数字の意味を考えます。
だからと云って、儒教の方々に尾を振り続ける事を好んだ政権交代は、拒絶感を相当に持っています。その時の、失業者の増加の事実は決して忘れてはいけないと思っています。
失業率は減って、非正規雇用は増えている。この意味はなんだろうと考えます。グローバル化の結果というだけで済ますべきなのでしょうか?大きく影響をしていると思うのですが、別の意味で『何とかしたく』という活気と云うのでしょうか、心意気と云うのでしょうか、そういう物を置いても、この影響下から逃れられないのでしょうか?
難しいですね。
でも、そういう物?粋とでも云えば良いのでしょうか?そんな粋を失わずにい続ける事と、影響を受け続ける結果では、振り返る際、誰かが持つ所感は変わる事をあっしは信じたく思うのです。
ま、おじさんですから熱くなどなれません。傲慢にも、豪傑にもなれる体力はなさそうです。やはり、まったりの方が自然体でいられます。だから、心に小さな灯だけは見失したくない程度の決めごとですが。
4)兆候というか、予告というか…
どんな形であれ、固定化という状況に陥る時、固定化した環境のままでは、人はくすぶるよりも、受け入れる事を選ぶ気がします。そんな状況下、喪失感や、焦燥感に駆られる時、逆に、人は受け入れるのではなく何かを考える気がします。
アッシラらの首相が先の言葉を置かれたのは、活力を社会に取り戻す事へのメッセージなのかなどと考えてもいます。すると、首相には、その危機感があられるのでしょうか?
性奴隷制に憧れ“そんなつもりはありませんでした”と名指しをされた瞬間、抗議文を送る報道の方より、あっしには想像しやすい。
何もしない事で兆候を決定づけるか、未来を見据えた結果への予告とされたいのか、そんな受け止め方を、ふと個人としてはしてみたく思います。
5)順守という行為は、内なる声からだと思うのですが。
10年の時を必要としましたが、アッシの所は衛生士に助けていただける環境が、奇跡的に(これは本音)用意されました。“みんな**”というステージから抜け出したかったからですが。(あっしの力があったのだろうか?縁でしかないと思っています。)
4年と云う月日をかけて(勤務歯科医は、実は不足しています。開業医の数とは違います)新しい歯科医に勤務して頂ける事になりました。
患者の立場になれば、“なるべく予約時間から治療に入りたい。で、質も保証されたい。”
そんな心根を持たれるのは、経営者のアッシと意見は違いますが、理解出来ます。そうなれば、一日当たりの患者数は絞らざるをえません。(これはこれで、経営は毎日、金目~金目~と、人間の出来ていない経営者の顔に戻る瞬間叫びたい衝動がお友達の状態です)
で、スタッフの立場になれば、過剰労働は避けてもらいたい。当然の声だと思うのです。それでも、(今もかもしれませんが)無理をお願いしないとどうにもなりませんでしたが、衛生士の数で無理な負担は無いように配慮しないと行けませんでした。
衛生士が(法で認められている範囲)医療行為に参画して頂けるだけで、質は断然と上がります。
その時、“小さな診療室なら***”というステージから抜け出せるかなって、内なる声が問いかけます。よく分らないから、1ユニット一人の衛生士という、アホな発想したのが、アホですわ。
低きに安住すれば“低き所に水がたまる如く”澱む状況の云い訳だけを用意しながら、本当に澱む様な気がして、そして、澱んで腐っていく事を気が付けない気がして。
6)順守と云う意味は、あっしらは、国家資格という意味を噛みしめる事なのだろうか?
歯科医の中には、医者と対抗?そんな感覚を持たれる方もおられるようです。先に書いた医療法違反の先生がそうなのかは存じ上げません。
でも、違反になれていけば、もしかしたら、そんな意識を持つようになられるのかなって思ったりもします。
あるいは、小心者であれば、別の理由をつけながら全身を診ない中で、全身を診ると矛盾した行動を取られるのでしょうか?
本当に難しい所です。
ところが、噛み合わせが***となられて、全身がおかしい(ここではこのような表現を用います)と自覚を持たれる方がおられます。
ところが、例えば歯科の治療後、繊維筋痛症に発症がと疫学調査があるようです。
全身がおかしい≠歯科治療なのか、歯科治療≠全身なのか、という単純化では多分、これら矛盾した現症は実証されない筈です。
では、別の切り口を入れる時、どうなるのでしょう?
ここが、アッシがいつの間にか(多分、執着?執念?拘りかな)持ち始めた価値観だと思う次第です。
自然科学はまだまだ解明されていない物もあるようです。開業医が気が付いた(一人だけではない筈です)所が、ややこしくなる所以と思いつつ、やはり公に問いかける以外無いのだろうと思い始めている次第です。
さて、どうしましょう。
おしまい