1)ゴールが見えてきて
ゴールが見えてくる時、やはり嬉しい物です。あ、これ臨床の話。
リエゾンと云う治療形態の考え方があります。治療コンセプトとしては最高の考えと、個人のアッシは評価しています。
さて、その状況と結果は別なのでしょうが、リエゾンと云う考えは好きです。
この治療形態がどのように機能しているのか、評価する側にいる訳でないので何も言えません。
この形態を知った時、”これだ!”って、思った事は事実です。今から5年ぐらい前でしょうか?
でも、少なくともこの患者の治療経験を聞くと、評価は難しいと思った寂しい経験を持っています。
結局、歯科で起きた問題は歯科で解決する以外は無いと、試行錯誤を覚悟しながら治療を引き受けた記憶があります。
その当時のアッシのレベルと比較すると、考えてみれば雲泥の差と振り返ると思えるから不思議なものです。
個人の所感はこれぐらいにして。
身体に痛みがありました。
眠れませんでした。
口の中がおかしくて仕方ないと訴えていました。
ま、それ以外に色々とあるのですが、ま、個人の気ままな世界。この程度にして。
途中で断薬に至り、お医者の先生の力は途中で卒業し。
あ、言葉を補足します。
別の1次医療機関の歯科と1次医療機関の心療内科でリエゾンをおやりになられ、歯科の部分が
アッシに変わった訳です。
人生色々とある訳です。
薬は通院が始まって、2年ぐらいで心療内科の通院はと患者判断で終了。正確にいえば、断薬はその半年前に
完全に終了していたのですが。
2)断薬に至った時に
断薬に至った時、1次医療機関のお医者先生が論文をお出しになられないのかなって、勝手に期待しました。
リエゾンの世界観で、アッシの知る限り重症化した患者(この場合、薬抜きではどうにもならなくなった状態)の
の断薬は、中々難しいようです。
その仄かな報告が世に何かを(世間を変えるなどと云う大それたものでないです)紹介しないかなって期待したのです。
アッシの感覚では、口にその本質がある限り、その道の専門家が取り組まなければどうにもならない。
その一時しのぎの泊まり木が、このコンセプトと云う位置づけです。
この専門家が歯科にいるのかいないのか、あからさまに曝け出される時、何かが始まると期待したのでしょう。
開業医ですから、その道の専門家であろうと考えた事は無いです。実は。
唯、目の前の患者を何とかしたいという…何でしょう。青臭さになるのでしょうか?
その青臭さか、泥臭さが、対峙しようと決めた動機であったように思います。
もう一つは、この方の家族が元々、当院の患者でその紹介があって、断りにくかったという側面も
ありましたが。
後者のエネルギーの方が多分だった気がしていますが。
確実に言える事は、もし家族の紹介がなければ当時のアッシは、断ったでしょう。(多分)
変な経験をこの家族の方の治療でしてしまった事も理由になったのでしょうが。
難しい咬合状態を、簡単に(アッシ的には評価は違いますが)治したと思われてしまった事も
裏腹にあるようですが…
①ライセンス者の端くれとして、困っている人を助けたい
②開業医だから、無理はしてはいけない。
(皆に迷惑がかかる)
この分岐点に立った訳です。
3)分岐点は本当に分岐点なのか
当院ではインプラントは扱っていません。
いえ、正確にいえば、インプラントのオペはしていません。
オペは、別の医療機関にお願いしています。
何故か?
アッシが行うより確実な方が医療として適切と思うから。
では、咬合は?そして、咬合と身体との関係は?
この基準を含めた時、適切な処置を行える機関があるのか?
ここにもしかしたら課題が存在するのかもしれません。
矛盾点かもしれません。
この方が、一次医療機関を3か所渡り歩く既往歴がなければ、この課題など無視して一般論に終始出来たのかもしれません。
アッシは馬鹿だからロマンを求めて(多分ね)咬合を知りたくなって、身体との兼ね合いを後からどんどん知って行く。
だって、大学教育で知らされていませんもの。もしかしたら、今は違うのかもしれませんが。
上手くはいえませんが、矛盾点がある時、2極で分けて考えるべきではないと考えるように
なります。そのように捉えるようになるのは、いつの頃か分りませんが。
矛盾があり、どうにもならないと考えた時、良心に帰る以外ないと考えたのでしょう。
その時、選んだのは青臭さだったのでしょう。
そんな事を思います。
40代で選ぶ青臭さは、草臥れた自分には相当、重かった気がしますが…
4)飛び込む事で
でも、飛び込む事で見えた何かもあるから不思議なものです。
その何かが、多分、アッシが知りたかったそのものなのかもしれません。
不思議なものです。
そんな話も、そのうちに
おしまい