今日、随分さっぱりしていますね。そんな事を、ある人に声をかけられた。そうかもしれない。準備してきたもの。”どうにもならん””仕方ない””でも”と繰り返しの中で、心の会議をしていた頃とは、目標?決めごと?が見えれば、さっぱりするものかもしれない。
さて、どうなる事か分らないけれど淡々と進みたいと思うのですよね。
そう云えば選挙が近づいていますよね。
あっという間に今年が半分終わる事を同時に意味しているんですよね。う~む。
今年も、来年も乗り切れるのだろうか。乗りきらなきゃ。ま、自分の心の会議は飽きることなく続くから不思議なものです。不思議なものと云う所から、これならと…上手く言えませんが、この入口ならと感じる扉の前に立つ事が出来れば嬉しいなって思うのです。
著名な方が、立候補をされて結構、驚きました。
海外では日本初の外来語になったせこい人が、都知事をお辞めになられた。儒教の学校という外交に関わる事を進めようとする事よりも、せこいお金の使い方が全てでお辞めになられるようです。法律がそうである限り、どうにもならないのに、策士が勝手に策に溺れたという所なのでしょうか?難しいですね。人間性と云うよりも、人のお金の大好きぶりよりも“介護が原点”と云いながら、芸術に萌えた姿勢や、日本死ねとまで言われたのに保育園を作ろうとしない姿勢に、お辞めになられた理由がある方が…まだ、潔いと思えるのでしょうが、せこい。せこい政治の原点演出で始まり、せこく非を求められせこく退席された。何だかな・・・てな感覚です。
で,ところ変われば参議院選挙なんですね、野党共闘も一つのスタイルだと思います。でも、一党独裁で民主主義も存在しない党首の方が立憲主義と云われましても、大丈夫かと穿った見方をしてしまいます。共闘する側も、共闘する前に民主主義になるよう階級制を撤廃する潔さを求めれば良い物をと穿ってしまいます。
戦争法案を廃案にすると息まいて頂く前に、シナが変わらず来る事を上品に素知らぬ顔をする事も穿ってしまいます。そもそも、上品に迎え入れるきっかけを作られた改名の政党が、益々、のれんを貸して政策が恣意的に変わっていかれる。どうなんだろう?そんな事を穿ってしまいます。
日本の未来と云うほど派手なものではないのかもしれませんが、少なくとも東日本大震災、尖閣諸島漁船アタックの時に垣間見た「国を崩壊させる気か」と思わせた時間を戻す事だけはアッシは受け入れたくない無いと思います。そこに「立憲主義」と云う経典を持ちだされるたびに、欺瞞・嘘。隠蔽・歪曲の流行った時を思い出します。就活をしていた青年がどれだけ面接で落とされ、自己否定をし続けなければならなかったか。政権交替した瞬間に、就職が決まった。この差は?
最低賃金と素敵な経文を説法された時、逆にどれだけ自殺者が増えたか?
ふと、その頃の景色を「立憲主義」と云う言葉をマニュフェスという言葉にかえて、穿って見てしまいます。そして、あの頃と違いテレビと云う情報媒体は、等々ほぼ0時間になってしまいました。
第2の文革化の匂いをという噂を聞くたび、その友党が「立憲主義」と云う言葉を使い始め共闘と云う言葉で母屋を乗っ取る事を認められたのか改名された政党が気が付けば解党と云う展開にならない事を思いつつ、何だかなって云う感じです。
儒教同士愛を語って、日本悪い子論で世界に告げ口をされた2・3年前の構図と同じに見えて、アッシはどうにも好きになれません。
政党なら政党らしく、目標があるべきでしょうし、共闘されるならその統一した政策を出すべきでしょう。その主張が儒教とシナと同じに聞こえる限り、穿ってしまうみたいです。
さて、アッシはアッシの願っている扉に近づけると良いなと思いつつ、おしまい