たまに順調に終わる日があっても良いもんだ。咬合の構築は、多分、アッシの場合大変。そんな簡単なものではないと思っています。多分、ずっと(本当は暫くで済んで欲しい)続くのだろうなって思っています。
身体が素敵になったと歯の治療を介し報告を受けると、やはり仕事をしていて嬉しい時です。(どんな仕事にも、ある遣り甲斐の性質のものだと手前勝手ながら思っています)
たまにモビライゼーションを行って、喜ばれる時も嬉しい物です。たまにしか、今はこの技術を提供する事も無く、咬合の難しさを日々感じる状態でしょうか?
そんな話は、またの機会に書き記したいと思います。といっても、個人のブログ、本当に気が向いた時になるのでしょう。
計測の難しさをやはり日々感じます。一つの装置の修理を行っているから、角度計測は苦戦します。ま、修理が終わったらもう少し、角度計測が楽になるかもしれません。それが、楽しみです。
そう云えばアッシの所のHP結構、読まれている方がいらっしゃるみたいです。と、営業をかけられた方が教えて下さいました。実際の数字は知りません。個人のHPです。(せいぜい一日10件もあれば恩の字だと思っていますが、どうなのでしょう?)
本人全く知りません。アクセス数も把握していません。ブログも一方通行に徹しています。だって、上手い交流なんて出来ないとアッシの能力では確信していますから。気が向いたときに、ふらふらと書く感じの方がアッシの性格では良いようです。
少しだけ、個人のもう一つの胸のうちを記載させて頂くとするなら…
アッシの仕事は医療です。多分、その存在は陽だまりの様なものだと信じています。樹の中の木陰の中で時々日が差すそんな陽だまりのような存在だと思い込んでいます。無理繰り、宣伝のようなエネルギーを出しても仕方あるまいと考えているのでしょう。ま、それよりは、自分に課した何かの為に、進んでいく方が良いような気がしています。
そういえば、人殺しの予算と言明された物事を決める人は恣意的なのかその役職をお辞めになられたようです。
そういえば、中東の方でしたっけ?そこで自主的にプロの仕事として危険地帯にいかれ誘拐されたジャーナリストの身に関して国民に寄り添わない事はおかしいという議論があった様な記憶しています。
でも、拉致された同胞に関しては、相手が国家である以上国民に寄りそう必要がないという見解があるらしい。国民を守る事と人殺し予算とやらはどう関係するのだろう?
そういえば、シナが自衛隊に攻撃をしていた事が明らかになっても、自衛隊には人殺しの予算が渡されている事になるらしい。
シナが、北海道も沖縄も独立させるべきだという声を上げ出しても、相手が国である瞬間から、選択的に国民に寄り添う事を拒否できるらしい。
何かが違う。
国民に寄り添うという意味は、この国に攻撃をし続ける実験を仕掛けてくる輩と、正々堂々対峙する覚悟を示す事だと思えてなりません。そこに、人殺し予算という言葉で、寄り添わない理由を正当化する事であるとは合点が行きません。国民に寄り添う事を考える時、そこに憲法に矛盾があるなら正々堂々と改めるは改めれば良いという課題を提議されれば良いのにと思う次第です。
アッシの仕事で、恣意的な行動を取れば、3次医療機関の立場。多分、退場を求められる事になると思います。どっかの週刊誌で特集を組まれていたような行動を取れれば、実際、金目~と悩まなくて良いのになって思う時もあります。如何に患者に寄り添うかが、全てだと(出来ているかどうかは課題であり、考え続けないといけないのですが)見栄を張っている身ですので。
選挙の時。
アッシの基準は、やはり国民に寄り添う事なのか、そこに拘りを持つ気がします。
恣意的に、居丈高にオカシク組まれても、どうにも合点が行かないようです。むしろ、そこまでシナや儒教に屈すように見える動機の方が怖い気がしてなりません。
おしまい