こすが歯科医院
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変わらない事

変わらない事

2016/10/26

1)変わらないこと
歯科という仕事は、おそらく基本の治療の流れというのか、考え方はここ数十年に渡って
同じ作業を繰り返しているといった方が適切なのかもしれない。資本主義的な言い方をすれば、『同じ商品を繰り返し売る』という黄金律なのかもしれない。

事実、人見知りのアッシといえど、名医と言われる人は、「同じことを飽きずにずっとやっている。」という行動パターンが確認されます。心が幼いというか、蒼い時期はこの捉え方が、退屈で変わり映えもなくそれどころか停滞していると覚える事すらあったように記憶します。

むしろ「同じことをしたくない」と思う衝動が常に心を駆け巡って葛藤をしていたようにも思います。

真理は「同じことを繰り返す」という行動行為と理解しつつも、問題はどう「同じように繰り返すか」そこに、振り返ると課題があったように思えます。

そして、同時に保健医療制度に縛られる側の葛藤もあるよう思えます。(あくまでも歯科医側の見地でしかないと理解いただけると幸いです。)

2)変わらないことが、合理的だとしても
名医と言われる先生の治療を見学させていただくとき、ある事を気が付くようになります。
「得意とされ必ず成功に導く」と評すべきか、ご専門と評すべきか 、その部分に関しては、より確実性を上げるために様々な指向と工夫を横に備え、楽器に例えるなら常に同じ旋律を奏でるようされている事に気が付きます。

と、同時に専門でない場所に関しては、上手く言えませんが保険制度の歪を肯定しつつその中で活躍されているのかなって感じる時もあります。多分、この歪の部分を受け流すことが性に合わず「同じことを繰り返す」この意味を深く知る為には基準という意味を改めて見つめなおす事ではないかと思うようになります。

*そもそも保険制度が歯科医側にとり経営基盤を揺るがす事がない点数制度であればこの歪といった表現は出ないものと考えます。
*この歪がおかしいと思われる医療人においては、最初から制度に左右されない経営基盤を考えずに済む自費医療を選択するでしょう。
*この時、医療は誰が為にという更なる矛盾を持つようにアッシの場合感じます。
*先進諸国の1/10という点数評価では、歪が生じる事が適当だと思います。
そこで、合理的な事は「成功したパターンを繰り返す」という意味を改めて自らに問いかけるようになります。成功を単発にしないには継続させる。それにより、足元が強化されるのではないかと考え直すようになります。資本主義的発想であれば、安定成長と安定した収入が生まれると考えるようにもなります。
*実際は、収入面だけは真逆で成る程、1/10の壁はどうにも破れない。あるいは、和式リベラルの一方的な価値観に依存する平等主義が蔓延る限りプロフェッショナルよりも、1/10流されるプロでいる方が経営的には楽という事も体で知ります。和式リベラルはいつも高みから自らが痛みを伴う事を逃避した中で、平等を唱えるから不愉快極まりない。

3)変わらない変わり方ってあるのだろうか
一人の歯科医が成長するには、技術という意味では次から次へとある期間覚えていく必要があるのかもしれません。それは、保険という半世紀前の技術だけでは対応できない事実があるかもしれません。患者ニーズが半世紀前の物であれば不要なのかもしれませんが。

事業という見方に立てば、往診も多角経営の一つの姿なのかもしれません。

ただ、二つの事象両方に隠されている落とし穴は中途半端に陥る可能性がある事だと思っています。変わらなければ纏わりつく1/10の現実という恐怖、和式リベラルの満足する平等に見捨てられる恐怖、これが常に厭らしく絡む分、厄介と思っています。

ここをどのように対峙していくか。「イノベーション」という旗に皆が行ける訳でもないし和式リベラルの主張は「新しい物に手を出さなきゃ」という無責任をいつものように煽りながら靄に身を隠す(と感じる)始末。

変わらない事の方がより合理的で安定する筈と思いつつも、この恐怖は常に駆り立てる。
では、見方を変えてもう一度、必要とされる事を振り返る。1/10は国の方針である以上何もできないまでも、和式リベラルのご都合平等とは一線を置きたくなります。この輩の言い分は、結論言えば全く現実に即さない(ように感じる)。人間社会をあたかも共産圏の理想で見つめれば、個々に求める言い分は理解できる代物とようやく知るに至ります。

冷静になってよく考えれば、変わらないことの方がより合理的で安定すると考え直すようになります。ここが正に変わる事だと、些か文学的ですが考えます。

歯科の大事な仕事の一つは、“正に食せることに戻す事”と見出します。この本質を守る限り変わらなくてもいいし、そもそも、変える必要もない。人間社会がある限り、永遠に続く仕事と考え直すに至ります。ここに、同じことの繰り返しでも「効く」存在があると気が付きます。言い方を変えれば、靄の輩の影響下から離れることが出来たといった方が良いのかもしれない。

4)食せるという拘りが、別の世界に招待を受ける
同じ事の繰り返しという表現をした物の、咬合というべきか、かみ合わせというべきか、これと食せるに結びつける事には、実は相当な乖離があると、途中から知るに至ります。

食せるという作業に上手く運べないとしても、いきなり寝たきりになるわけでもない。ある一定の法則性で現症病名の連続性が担保される。この事実を受け入れなければならないと気が付くとき、また一人のライセンス者として苦しむ。学んでいない常識と出会うとき、受け入れるべき真実なのか、受け入れてはいけない破滅へ導く事態なのか、これと触れた瞬間、受け入れる事を選択したライセンス者程苦しむ。受け入れないと決める限り苦しむことは無い。ただし、食せるという拘りから離れざるを得ない。この本質の表裏が、誰にも言えない趣深い所と思うようになってもいます。

不定愁訴と歯科界は謙虚に濁し(そのように感じる)、医科は現症病名で堂々と対峙する。見方を変えれば、病名が横に備えわれば、そしてある一定の道筋を通れば保険診療に収まる可能性が高い医科であれば現症病名は大事なるでしょう。その一方、手を出すかどうか躊躇しなければならない歯科は、謙虚さに立ち返らねばならない。
この事実のどこに着目をすべきなのだろう。ともすれば、不定主訴という言葉を使えれば歯科は厄介者と切り捨てる立場を持つのかもしれない。現症病名を通せば、ひたすら薬の開発だけが続くのかもしれない。薬が肉体をある適量を越した際、起こる問題は向こうに置けるのだろうか?

もし仮に本質の道が一本明確に通っていて、あるべき対峙法とあまりに距離が乖離していた場合、どうなるのだろうか?全滅しつつあるリベラルでなく、和式リベラルがまた闊歩し始めるのだろうか?邪魔なだけだ。根拠なき感傷はご遠慮願いたい。

5)新しいことをする必要がないという事が最強の利点としたい
あっしは、ずっと「変わらない事に拘りたい」という変わる選択をしました。これが、最も合理的かつ安定的なものになると考えたからです。数字には表れないが、重要な要素になると考えました。

ところが、そこには基準が必要だと遅れて気が付きます。言い方を変えれば、規格化されていなければ、たまたまうまくいったに過ぎないになると危機感すら覚えていました。

治療は、規格化された(表現には些かの難がありますが)技術にのみ安定感は宿り、結果も付いてくる。むろん、その技術の精度という視点での表現ではありません。
この変わらない繰り返しを作るには、一定の規格化された“何か”が必要と考えるに至ります。その時、ライセンス者も安心感を抱き、厄介者を受け入れる勇気が湧くと考えるようなります。

ところが、規格化するには大地に対して骨格というか、咬合がどう位置関係を維持しているか知る必要がありました。フランクフルト平面に対してとでも専門的には言えば良いのでしょうか?

ところが、呼吸に対して歯列のエンドラインが実は乱れる事が上下の歯列の関係であり得る事態を覚えます。

ところが、身体の中心軸に対して正中性と平衡感覚性がどう乱れているか覚えさせられるようになります。

これが、線維筋痛症学会で紹介した計測器を介し知ったことでした。新しい事をしないで済ます為に、規格化しようと物差しで測る試みから問題を的確に把握しようとした瞬間、事態が変わったわけです。

新しい事など何もせず、2次元評価を3次元評価の土俵に乗せなおす試みが利点となると考えたら、変わってしまった。そんな所なのでしょうか?
でも、この瞬間、1本の道が結ばれたとアッシの中では考えています。

6)「何も変える必要がない」という立ち位置が大事の筈ですが
予測はしていたものの、計測上の矛盾は、頚椎のアーチに現れると計測行為を進めるたびに確信するに至ります。
“食せる”と書きましたが、実はこれが一番難しい事だと、直面させられる瞬間でした。

本来、新しいことをする場合、金がかかるのは当たり前です。土俵を変えたあるいは評価基準を変えることで規格化させようとした時、目的は一切変えていないのに、変わる羽目になる。不思議な経験です。

キーワードが反射系にある限り、反射系の収束条件を導けばよい。この条件を満たすには反射系をコントロールするためには、3次元的土俵環境での立ち向かい合う事と予測はしていたものの、これほどの効果を導くとは考えてもいませんでした。
ところが、頸と咬合平面の関連性も計測しなければ事態は改善しないと、嫌な虫がうずきだします。物差しで測り、土俵に乗せなおす。

ここにキーワードがあると感じても、目の前の開発費は正直、絶望を覚える始末。物差しと言っても、球形上の顎顔面を図るとなれば、物差しも特殊な形状が要求されます。

改めてもう1000諭吉さんお代わり、3年で2000の諭吉さん。個人が借りる上で、享受しがたい額とあっしは思ってしまいます。返済までを考えると、ここが限界と思っています。線維筋痛症学会で問いかけられたリベラルな医師の方への、現実を介した返信なのかもしれません。“100万もかかるとは高いと思いませんか?”患者の経済的な側面は知りません。アッシには関与できる範疇ではありません。でも、国からも今は取り残され、原因は分からないけれど薬で対処するか。計測を行うことで、反射系の亢進が口腔由来であると見極める事が出来て、それと対峙するのか?共に闘おうという捉え方と、薬で凌いで果て無き道を続けるのかという捉え方でしかないと思いますが。アッシの知る絶滅したリベラルはもっと、厳しい価値観と思いました。武士道とは“死ぬことと見つけたり”という精神がむしろ近いと思っています。

単純に「うまくいっていて永遠に続けられるもの」に医療人のあり方を求め考えていました。「安定して結果を出したい」と切望していました。その探索の連続性の中から「実は改めて変わらなければならない」必要がある。と、発見をしたお話でした。

時間が経つにつれて、結果は圧倒的な差となるのかもしれませんが、果たしてここまで拘る必要があるのか、自問自答は続きます。患者利益を守るにも、自分をどこまで甚振れば良いのか、苦悶の時を過ごしています。開業医ではなく、やはり研究機関に引き継いでもらいたいと思う心は公の精神を表に置く限り、適切だと思ってもいます。

「新しいことはしないで、今と同じことに拘り続ける」これの方が合理的であると理解していると思っていました。「変わらない」という事が重要と信じていました。しかし、基準を変えるというか、見る視点を規格化させて始めるという決め事が、実はこれほど多くの情報が隠されている事実を教えてくれるとは思いもしませんでした。より合理的で安定を求めた結果への追求は、多くの基準・座標を持つことから始まると考えていました。そして、ずっと求めていた1本の道がつながったと理解した瞬間、おそらく個人の開業医が出来る研究の真似事も終了したと覚えました。

開業医のあっしが拘る“食せる”こと。これには、もう既に十分の情報を提供してくれます。
本質が1本の道の中に、さまざまに変わる現症病名に対しても納得を覚えた今、アッシにとっては自前で用意できる位置づけとしては最後の計測器を、兎に角、やせ我慢してでも資金を工面するか考えてみたく思います。悩むのでしょう。決めた期日までには決断しなければなりません。医療人であろうとし続けるべきか、医業を取らねばならぬ現実という生活を選択すべきなのか。参りました。

頭の中では、最後の計測装置デザインも用意していました。画像診断へつながる物差しと手前勝手ですがイメージしていました。でも、忘れる事にしました。一つの物差しと言え、半年から8か月図面との格闘する事も、もう無理だと受け入れることにしました。これからは、公に問うて公の誰かへ引き継ぐものと、静かに終える人生観に戻ろうと決めたでき事でもありました。

おしまい

 

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