4)痛みの感覚センサーの存在
そういえばある患者の会の主催者と連絡を取らせて頂いている。ポリモーダル受容器は主催者から存在を知る。
この存在が、ずれではなく歪みという発想起点がどうやら正しいのでないかと知るに至る。
器質性障害は、精度をずれないよう考え、痛みに関しては歪みという側面で捉えないとどうにもならんと知る。いや、そう考えないとどうにもならん。ここに器質的障害の解決糸口があると知る。同時に、そうしないと痛みの連鎖は断ち切れないと考えるようになる。
歯科の歴史は咬合の正解を求める歴史と言って良いかもしれない。その戦いは必ずどこかで限界という連鎖に行き着く。
1次資料というか直接的に問題が把握できる診断法が無い事を知る。間接的に把握できる手法は相当に出ている。しかし、直接的な方法は無い。
歪みという現症を(ひずみ、ゆがみ)を直接的に見いだせれば話は変わる。併せ、ポリモーダルが頑張る時、空間把握能がおかしくなると言われている。この論文とはまだ出会えていない。只、ここから一つ線維筋痛症の患者を介し、理解した事がある。
凝っているから痛いのでない。凝っていても痛みは無い時もある。凝っていなくても痛みがある時もある。凝っていると感じても、患者が痛みを感じない時もある。上手くは言えない。
しかし、肛門、陰部、目とかの軟組織以外を全て触ると分かるが、実際患者が感じる痛みのポイントは確実にある。全て痛いと言って、触ると痛みの起点部位が絞られる時もある。何となく痛いと言って、触るとこれほどまでかと痛み(が誘発された結果)をあちらこちらに感じる場合もある。
ところが、過剰接触を幾つかの機能試験を通して確認を行えば、その場所が分かり、そこを咬合調整すると、痛みが消える。この繰り返しは、顎の傾斜能を変える。このデーターは確実に得ている。傾斜能があるルールに戻る時、痛みも消えていく。
但し、これを一辺に紹介する方法は無い物かと思案していた時、そんな症例と出会う。許可を得られたら、学会に出すかもしれない。直接的1次資料付きで。
口腔のトラブルから身体に行きわたる現症を機能障害と捉えるような学習をしたように記憶している。しかし、違うと思う。器質的障害の延長に問題がある。ここにアッシら歯科医は立ち位置すら、混乱の場面にいるのかもしれない。ここを避ける事は出来ない。オリンピックではやった(のか)“そーだね娘”のように爽やかに立ち向かう勇気もない。だからと言って堕落も出来まい。
何ら威張るものなど無い。機能性障害であれば教科書が教えてくれる。“基礎に忠実に”で導かれる。但し、器質的障害になると、その教科書は無い。
確実でない事に確実性を置くのではなく、確実な事を整理する。それが大事なのではないかと考えるようになる。確実な整理から、始める事ではないか。先人の研究の戦いが必ずどこかで限界という連鎖に行き着くのも、原因はここらにあるのではと勝手ながら思う。
この事を、今の咬合に興味を持つきっかけになった学会に発表をしてみるかと考え始めている。どれだけ、機能性障害と器質的障害に違いがあるか。ここすら問題意識が無ければ、臨床に立つ重さなど到底行き着けない。
悪人なら、スターのご機嫌取りに機能性障害の解決でやられたと持ち上げれば解決する。襲われている街人など関係ない。街の変化などスターは気が付かない。街の風景が侵略されるが如く変われば街人には堪ったものではない。生活を変えられる・文化を壊される。生活もルールも全て悪人の思いのままに支配される。器質的障害とは正にこんな例えばしっくりと来る。スターは壊れた街を治せない。スターは壊された文化に興味がない、街人の声などスターには聞こえない。器質的障害は声なき声をどれだけ一次資料に収め、解決案としての2次資料を用意できるか?そんな所なのだろう。
悪人とは器質的障害の時、ひたすら意味なき防衛の為に活動する自身の肉体の防御機構だ。実際の臨床は、意味なき防衛をしないで済むよう問題をまず抽出しなければならない。機能障害と捉えると機能回復と称し次々と手を打とうとしてしまう。これが厄介だ。新たな防衛を更に身体は繰り出す。この時、無限のループに患者は嵌りこむ。招待すると言って良いかもしれない。
歯科治療が時に器質的障害との対峙と考えれば、機能回復と称す新たなる手の連続は黄昏時を迎えるのかもしれない。蚊帳の外に置かれる器質的障害と、絶好調の機能回復と称す新たなる手。黄昏を迎えるべき考えは何なのか誰かが声を出す以外無いのかもしれない。
唾のみ試験が干渉の発見に使えるのでないかと、バーでひたすら唾のみをする。何時間も酒一杯で粘りなら考え続ける。
また来たのか、とマスターに言われながら何週間も考え続ける。
医者がその試験を見事に応用させる。一人才能が無いとバーで「そんな事もあるさ」とマスターに一杯おごられる。勢いでもう少しグラスは進む。そんな時もある。走って汗をかいて何かを消化する力などもうない。酒の苦さと香りに頼らなければ消火など最早出来ない年になったのか。
咬合における干渉の為の咬合調整も見方を変えれば、決して機能性障害の開放とか回復と言ってはならない、と考える。反射系が変わる以上、器質的障害に対する取り組みとでも言うべきか。
機能試験に活路があると信じつつも、ポリモーダル受容器を知って一挙に方法に華を開く。咬合調整をしていい場所もあればしては行けない場所も存在する。
一人の力ではたかが知れている。聞いてくれると医療とは関係ない資格者に近々話す。只、凄い人を紹介できないか。それが、国益ならまとめて欲しい。公益になるなら繋げて欲しい。貴重な時間を貰え感謝している。
知りたかった課題は多分テーブルの上に置いた。そう思っている。
仮に何かを断言できる人間がいてあたかも予測や予言の如く表に出る時、その演出が素晴らしければ素晴らしい程、「何かが見えているような」気になる。
しかし、よくよく考えるとそんな物など、子供心で矛盾を感じる時もある。その矛盾にこそ感じさせない演出が有効になる時もあるかもしれない。
アッシは、そんな事がどうやら何時しか苦手になったようだ。
つけは作ってはいけない。
熱狂的に受け入れてもらう事など科学にあるのだろうか?ただ、何かに向かって動いて論文を出して発表をして、誰かに気が付いて貰う以外ないのではないだろうか?そう思えて仕方がない。
“忘れな草”この花言葉はさておき。現実的な認識を持つ時、歴史が科学をどう扱ったかを知る以外ないのではないか。この頃、そんな事を嘯く。
それでもこだわり続けるならば修業と言い聞かせるのか。それとも、江戸時代ならもはや年寄り。よる歳にと散る事を考えるべきか。
マスターに「1回おごられたからと言って、またおごられるなんて思うな。酒飲みたかったら、金を払え。人生は修行だ。」と説教を食らいに行くべきか。それを今は悩んでいる。
何時もとは違う文体ですいません。そして長くて仮に読んで下さったなら感謝します。
ふと、思った事を、柄にもなく力をいれて分不相応な事を書いてしまいました。個人の妄想という事で。
おしまい