色々な価値観があるようです。別に、その存在を否定する根拠もありません。そして否定する力もありませんし、否定したいとも思いません。尊重されるべきと思います。それが、個人の考え。
で、時々考える事もあります。別に大した事でもないのです。その根底は、本当にそこまで多種多様にあるのだろうか?な~んてね。ま、難しい事はここまでにして。
価値観がを目の前に表れていく際、他人から見える風景というか、見える表現は、結果、色々な姿に表れるのでしょう。でも、根の部分はそんなに複雑ではないのかなって考えたりもします。どうなのでしょうか?
仕事では、いつの間にか咬合を意識しないといけない現場で生きています。本人、そこまで強く意識していなかったものの、それが自然になります。それが、皮肉にも色々な事を考えないと行けないから面白いものです。色々と考えるから、自分なりの価値観が生まれていくから不思議なものです。
もう、こんな事を考えながら仕事するの嫌だ!そう思う事もたまにはあります。
ま、仕事としてお引き受けするのか分りませんが、顎が痛く、腰の方が(こういう表現にします)悪いという方とお会いします。口の開閉がどうとか、そういう議論をしたいわけでもありませんが、腰の痛みの部分と、顎の痛みが関連している事を確認して頂きます。
さて、どうしたものか?
こんな現症(現象)を気がつかねば、何も生まれなかっただろうに気がついたというか、知ってしまった事から、ややこしくなるわけです。そう個人のあっしは思っています。何の因果かと思う時も、隠さずいえば思う事もあります。なんで、こんな程度のあっしにめぐり合いを渡されるのだろうと、お天道様に訊ねたくなる時もあります。で、答えを出さねば完治がないから、ただ考え続け、調べ続けるしかない、そんな感じです。
ま、それも選んだ(多分)から、しかたないと割り切るのですが、少なくとも後ろ指をさされたくないと思う事だけは、五分の魂かもしれませんが忘れないようにしています。
その時、どんな価値観(表現)に他人には見えるのだろうとふと、思うわけです。後ろ指だけは、それは忘れたくない、そんな思いです。
で、それが日本の中にある価値観の一つなのだろうと思いたくなります。
ところで、日本を否定する価値観もあるのだなって、それを理解するようになります。
もっと、謝れ価値観、日本人差別を受け入れという価値観。これは、随分分りやすくなった気がします。
謝れと1000年の誓いを求める価値観。シナという土地で戦争があった事実と、共産党とは戦っていないにも関わらず抗日戦勝記念を受け入れろという価値観。これを守るためなら、いくらでも言説(詭弁と思いますが)が許される価値観。その一つが、集団的自衛権の一つの法案が戦争法案という価値観につながるのだろうななんて思うようになっています。この国が言論の自由を重んじる価値観である限り、心で排除する以外ないのだろうなって理解するようになっています。
破廉恥の精神と廉恥の精神の戦いでは、捏造と嘘をベースにする限り、言葉の巧みさには敵わないかもしれません。廉恥に重きを置く限り、そして強く知らない限り、巧みな対立誘導や衝突誘導には敵わないのかもしれません。
ま、落ち切らない所でおしまいですが、五分の魂は忘れたくないものです。そして、心で排除するというのは、多分、小さくても真剣に流されずに生きることなのかなって思うようになっています。
おしまい