■2013/11/09 大工仕事が歯科と思う。けど、単純じゃない 筈?
心のコンプレックスの為に、美を追求するお仕事がある事を身近に感じる経験をします。きっかけは、『好きな言葉は***です』というフレーズを聞いた所に始まります。
ま、どうでもいいことなのですが、あたしには妙に引っ掛かります。何故だろうと、“ナンチャッテ探索”を繰り返します。
で、美容外科と歯科の共通点の一つに大工仕事があるのではないかと気が付きます。個人的には、凄い発見なのです。本当に凄い発見です。
違いは、お客様の要望と美と、疾患とか病態との対峙と言う所なのでしょう。美への門外漢がこれ以上、触れるというのは野暮と言う物です。
ですが、ここが肝心なことだと気が付きます。
想像以上に新しく与えた/植えた パーツが、身体と馴染まなかった場合、あるいは、肉体の限界/口腔組織 の限界まで弄った結果、修正不能な所まで行ってしまった場合、どちらもゼウスは溜息を洩らすのではないか?
お客様・相手の仕事と患者・相手の仕事では、ゼウスの溜息の持つ意味は違うでしょうが、修復不可能な所まで行くことへの持つ意味は深刻だと思います。
だから、歯科の考え方にミニマムプレパレーションとか、歯をすぐには触らないという考え方が生まれてくるのは自然ではないかと思えるのです。
但し、時に治療委縮を術者に渡す場合もあるので、一長一短と言う顔が隠されている事も、術者サイドも患者サイドも頭の片隅に共通認識として持ち合わせる事が出来ると、素敵なのかもしれません。個人的には観念と固定観念の差になると思っています。同時に、固定観念の罠に嵌る事だけは、何気に避ける努力はいるのかなって思う今日この頃です。この言葉に嵌らないコツは、言葉に踊らされない事なのかなって、妙に思います。
さて、歯科の仕事において、多数の学問知識が要求されるとあたし個人は思っています。その上で、大工作業が始まると思っています。
そして、問題はあたしらの仕事の大工作業が主体故に、患者の主訴がとても大きなウェイトを占める可能性が、歯科医サイドにも患者サイドにも共通に存在する事を互いに知る必要があるのではと考えています。
だから、唐突に結論を述べますが言葉による共有化がとても大事だと思えるのです。どうなのでしょうか?
歯科の病名の多くが、基本的に現症病名が多数存在するのも大工作業が主体だからだと個人のあたしは考えています。逆説的に言えば、現症病名だけで成立していないお医者先生の世界観から見れば、勝手な想像ですが、不思議な世界に映るのかもしれません。
『美しくなる為に不足している身体のどっかの現象と解決法』、『現症として現れる口腔内の現象と治療法』という表現上では近似性あるいは類似性の枠組みが妙に、引っ掛かったのかなって思考の探索の後、思うようになっています。
そして、一つの象徴表現として、美容歯科と審美歯科と言う表現になって表れるのかもしれませんね。美容と言う表現上の定義が分からないので、あたしの分析はここらが限界のようです。
唯、過剰接触と言うありがちな現症はどう対応されているのだろうと、一治療者としては妙に、興味を持ちます。医療行為であれど治療行為でない以上(多分、美容行為と言うのでしょうか?) 生理的側面より起こりうる現症に対するは配慮はなされているのか、妙に興味を持つ次第です。これは、個人の知りたいという興味の範疇でしかないのですが…
ま、あたしが一生関わり合う物ではない畑かと思うので、興味でしかないです。
という話の流れの中、過剰接触に関する話を入れるのも、あまりに見えすぎている事、興味と言うだけの趣旨から外れる可能性がある事、そんな動機から、別の話を入れて今回はおしまい。
こんな現症と現象を理解しなければならないという発想に至るのも、お医者先生と話す機会を得てからにしか過ぎません。畑が違うから、刺激になるという見方も成立するでしょう。気を悪くされる表現かもしれませんが、流石、ヒエラルキー2番の国家資格という事だとあたしは思います。(1番は司法試験・2番は医師国家試験)この出会いと影響はとても大きかった。
こんな表現を用いるのも何ですが、まだ紹介していない出会いから、実は、ここの治療力(造語です)の捉え方が飛躍的に伸びたのは事実のようです。面白い物だと、個人のあたしは思います。
さて、歯医者さんらしくつい最近、気が付いた国語の世界。
成人の歯周病においてデンタルIQの高い地域においては咬合由来が一説によると8割あるいは9割以上。さて、本当かどうかは読み手にお任せするとして…
歯の位置関係が正しい位置に無いとする。これを前提に、外傷性咬合と咬合性外傷について“ナンチャッテ解説”。定義ではないので、読み物的に、理解ください。
咀嚼する度に、適正な位置に歯が無いから無理な力が加わってあたかも暴力的に(殴られたように)歯を支える歯周組織が暴力被害を受ける状態。で、歯肉が異常に下がるとか、歯がぐらぐらするとか、そんな現象が観察される。ナンチャッテ!;外傷性咬合
適正な位置に歯が無いから、咬合圧が加わる度に、歯周組織に暴力的な影響が与えられてしまう。それは寝ている時に咬合圧が加わってもいいし、日常、歯が接触し続け、咬合圧が加わり続けてもいいし…で、歯がぐらぐらするとか、歯肉が異常に下がるとか、歯が異常に摩耗するとか、そんな現象が観察される。ナンチャッテ!;咬合性外傷
てな、具合に、現象の捉え方の見方を変えると、現症病名も奥が深くありませんか。
なんて初歩的な捉え方を、そんな出会いのお陰で考えられるようになります。
で、そうだよね。この考え方が“あり”だと思ってしまったあなた。
この現症は、歯の位置を治さない限り、治らないという事にならないのでしょうか?
すると、歯科の考え方のミニマムプレパレーションや、歯をすぐには触らないという考え方と一線を帰す考えにならないでしょうか?
主訴と大工作業の関係とか、術者と患者の共有化が上手く運ばない限り、観念と固定観念の決して交錯する事のない狭間に、治療が嵌り得る可能性はないでしょうか?
言葉に踊らされず共有化するという作業はとても大変だと個人のあたしは思います。どれだけ、クリニックサイドがどれだけ、我を捨てて、安全面や確実性の面から患者と情報を共有化出来るか、そこに例えばカウセリングの本質があるのかなって、妙に思える今日この頃です。医療において患者と病態と対峙する作業はカウセリング以外にも、まだまだあると思います。それは、気が向いた際にでもまた。
臨床は、決して甘くないと、人みしりぐらいがちょうど良いと、アホなあたしは思うのです。
おしまい。